「新兵、補充兵」「兵士を採用する」


http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666


 そういえば夏頃になるといろいろ悩み出すもんだな、と懐かしく思い出した。何がエリートで何が馬鹿かにはあまり興味がないのだけど、でも読んでいてちょっと思ったりすることはあった。


 「社会人」である以上、文字通り、ひとりで生活するわけではない。就職すれば、その所属集団の最大利益を追求するのが彼/彼女の使命となる。集団でひとつの具体的な目標に取り組むためには、当然、コミュニケーションが必要だ。というか、コミュニケーションとれないやつが集団の中で働けるかヴォケというわけだ。
 コミュニケーション能力といっても別に「誰とでも5分ですぐに打ち解け仲良くなれる」とか「リアル友でマイミク100人」とかいうレベルが求められてるわけではないだろう。言いたいこと/言うべきことを適切なタイミングで適切に伝えられ、同様に相手の言いたいことを適切に理解できればいいわけだ。要は普通に会話できればいい(学校が集団生活なのはその訓練でしょ)。普通に話せれば、そのうち経験値を積み、人脈も広がり、やがてコミュニケーション強者にレベルアップできるかもしれない。が、新卒にそれが求められるわけではない。
 学歴とは関係なく、まず普通にコミュニケーション取れる、それが社会人になる大前提だ。ゲームへの出場資格の必須要件。だから京大だろうが東大だろうが高卒だろうが中卒だろうが、コミュニケーションもまともに取れないやつはそもそも社会人として社会生活を営む準備が出来ていない、とみなされる。ゲームにエントリーできないのだ。そういう意味で、元記事の「学歴とコミュニケーション能力の有無」云々なんつーのは、次元の異なる二つの要素を並べて語ってる時点でナンセンスだろう。


 非コミュの苦しみなり悩みなりというのは、それでそれで重いのだとは思う。他のみんなが当たり前にしていることがどうしても出来ないわけで、それは本人のせいではないのかもしれないし、「がんばれ」とか「努力しろ」とかいう類の話でもないだろう。でもだからと言って「俺のせいではないのだから雇え」と強要できるものではない。結局の所、企業はリハビリ施設でも学校でもないし、お友達でも家族でもない。この社会は驚くほど冷淡で不条理だ。誰も助けてくれないし、関心すら持ってくれない。
 もちろんコミュニケーションを取れることを構成員の前提とするこの社会自体を否定するっていう手もあるが、じゃあ政治家や革命家にでもなるかしかない。そうではなくて、少なくとも就職しようって言うのなら、まずこの社会自体を受け入れなければいけない。社会の内に安穏としていながら社会を否定するなんて駄々っ子の甘えと言われてもしょうがないだろう。
 まあつまり「このままの自分をそのまま受け入れて」などと社会に求めること自体見当違いで、社会にそんな義理はない。というか、そんなプレイは家でやれ、ということ。いや、実際、皮肉でもなんでもなく、それは家でやるべきことだと思う。家族に愚痴言ったり、奥さんにダメな自分を見せて甘えてみたり、彼氏に「愛してる」と言わせてみたり(犬でも猫でも脳内彼女でも)。社会にそれを求めるのは筋違いだ。


 あと、けものみちでもなんでもいいけど、仕事と自己実現はきっちりわけたほうがいいと思った。自分は(普段それを意識したことはないけど)いわゆるロスジェネ世代ど真ん中で、まともに一般企業には就職もせずに(幸運にも)好きなことばかりして生活してきたが、決して平坦な社会人人生を歩んできたわけではない。ロスジェネ世代らしいドロップアウトをしたのだと思う。当時は就職しなくても今ほど切迫した雰囲気はなかったし、自分もそんなに深刻には考えていなかった。周りにもそんなやつは大勢いたし。で、今、振り返って当時の自分に一言言ってやるとしたら、「仕事と自己実現は区別したほうがいいよ」ってことだ。会社っていうのは利益追求をする場所で、個人が自己実現や存在証明と求める場所ではない。ライスワークはライスワークとしてきっちり分ける。いろんな人を見てきたけれど、その割り切りが出来てるやつほど、社会人として、強い。挫折しない。使いやすい。
 ちなみに、recruitを辞書で引いてみると、まずこう書いてある。「新兵、補充兵」「兵士を採用する」。ランボーみたいに戦場にいることが存在証明になるなら最強だが、そういう猛者でないのならせめて人を撃ったとか誰かが死んだとか何が正義?とか私は何者?とか悩みだしたりするな、と。自分の人格と仕事は分けて、一兵卒として淡々と任務をこなせ。そのかわり、自分が名前のない、代わりのきく兵隊では「ない」場所を、別に用意しておけばいい。家庭を作ったり趣味を持つのでもいいし、それこそブログを書くでもいい。そうやってみんな戦場でサヴァイヴしてるのだよ。とあの頃の自分には教えてあげたい。
 ま、言われても聞かなかっただろうけど。

神話と祭り、プロレスとバラエティ


 プロレスというのは奇妙なスポーツで、周知のとおり、試合の流れや勝負はあらかじめ決まっている。所謂ガチンコとは、そのストーリーをはみ出し真剣勝負をやってしまうことで、プロレスのリングでは基本的にガチンコはない。熱心なプロレスファンであれば、当然そんなことは承知していて、例えば「相手選手が予定外に失神してしまい、必死になって起こしてブック通りに試合を続けた」なんて逸話をうれしそうに話したりする。
 必殺技の出し合いなんていうのはガチンコでは出来ない。もし勝負にこだわるのなら「相手の技を受けて立つ」などという哲学はナンセンス以外の何ものでもない。だがレスラーたちは相手に技をかけさせ、それを耐えてみせる。効率は悪いがド派手で見栄えのする技を(時にはわざわざコーナーポストにまで登り)繰り出す。受けるほうは、相手が必殺技を出しやすいように的確な位置に倒れ、相手が飛んでくるのを待つ。そしてお話は続く。一体、どんな結末になるのか、ファンは勝負の行方を案じ、その先にある「選手間の遺恨や因縁を背景にした復讐劇」だったり、あるいは「新人からスターへと駆け上る成長物語」だったりというストーリーに歓喜し、熱狂し、涙する。
 プロレスは映画と同じだ。ただひとつ違う点があるとすれば、プロレスは全体はブックでも、ひとつひとつの技はガチンコだということだろう。殴ったふりではなく、本当に殴る。蹴ったふりではなく、本当に蹴る。だからそこにリアリティが生まれる。そして不思議なことに、その過程で、ただストーリーをなぞるだけなのとは違うとんでもない何かが、誰かの思惑を凌駕するような圧倒的な何かが生まれることがある。それにこそ観客は打たれるのだ。


 テレビ・バラエティも基本的にガチンコではない(『ガチンコ!』がガチンコでなかったように)。多額の予算と大勢の人員が投じられ、数千万の視線が注視する。リング上の才能(タレント)だけにすべてを丸投げするのはあまりに無謀だ。
 子供の頃の僕はそれを知らなかった。素朴にすべてが真実であると信じていた。たけしがさんまの車をメタメタにしたときは、本当にさんまに同情した。翌年、さんまがたけしに復讐することになった時は心底さんまを応援した。タケちゃんマンも嫌いだったし、いつもやられては立ち上がる健気なブラックデビルの方が好きだった。たけしはなんて嫌な奴なんだと思っていた。それからしばらくして「おいしい」という言葉を覚えた。ああ、と理解した。全部お話だったのだ。迫真の、真実味のある、だが全部フィクションだった。ガキだった自分がそれでがっかりしたかと言えば、確かにそういう面もある。だがそれ以上に、人を楽しませるということがいかに難しく、さまざまな準備や計算を必要としているかを知り、随分と感心したものだった。
 2008年、さんまが収録中のダウンタウンに会いに行ったのも、さんまと岡村の車が無残に破壊されたのも、西野がさんまに切れたのも、すべてブックだ。決められたストーリーの中で、彼らは与えられた役割を演じきる。ただし、プレロス同様、全体はブックでも、ひとつひとつの技はガチンコだ。だからそこにリアリティが生まれる。そのためにレスラーは体を、芸人は芸を鍛える。破壊されるさんまの車は本当にさんまの車でなければならない。流れは決まっていてもそこで繰り出される蹴りやパンチはホンモノでなくてはいけない。そしてだからこそ、時にあらかじめ用意されたストーリーを越える何かが見えることがあるのだ。ダウンタウンの汗やたけしの涙やさんまの赤い目や芸人たちの真剣な眼差しは、演技ではない。フィクションの中にありながら、そこはリアルなのだ。だから想定を超えたドラマ、つまり神が降りることがある。
 四角い枠の中でで彼らは身を削る。人々を楽しませるために。それが彼らの仕事だ。レスラーと芸人はよく似ている。ビビる大木がドン小西からジャンボ鶴田に戻され、有田は死神の扮装になってからも高田延彦を演じ続け、深夜のあの修羅場でもっとも多く振られ、もっとも多く笑いを取ったのがアシュラマンラーメンマンのコンビだったのは、多分、偶然ではない。


 プロレスを理解するためには前提を共有する必要がある。「選手間の遺恨や因縁」を知らなければ復讐劇を楽しめないし、あるいはその選手の立ち位置を知らなければ成長物語も楽しめない。物語を共有できなければ、楽しめないのがプロレスだ。そして、プロレス人気は凋落していった。
 物語の喪失は、現代社会のキーワードでもある。誰もが共有できた物語は失われ、それぞれがそれぞれの物語を生きている。テレビもまたそんな状況に苦しんでいる。テレビの画面はひとつ、だがその前で待ち構えているのは極限まで細分化多様化したさまざまな欲望だ。一歩でも何かの物語に踏み込めば、それを知らない他の大勢にはソッポを向かれることになる。テレビの画面で繰り広げられるのは、まるで神話を忘却した祭りだ。その祭りモドキは神に接続することなく、誰に何を祈るのかさえ忘れ、かつて覚えた身振りを表層的に繰り返す。そこには何の意味もない。
 この20年間のテレビ・バラエティの枠組みを発明した制作陣が、今回やってみせたのはそんな状況へのアンチテーゼ、もしくは最後の悪あがきだったと思う。「ダウンタウンとさんま」「たけしとさんま」「大竹しのぶとさんま」「ひょうきん族の面々のその後」「若者の成長物語」。古えの、だがみんながかろうじて共有できていた最後の物語を召還することによって、祭りに本来の意味を持たせた。たけしは最後御輿の上から米を噴射した。さんまは神と呼ばれ、拝まれた。
 それは後ろ向きの懐古主義なのかもしれない。哀れなノスタルジーかもしれない。だが多少なりともエンターテイメントに関わる人間としては、やはり、と共感せざるを得ないはずだ。神話がなければ祭りに感動できないのだ、と。

今夜の俺の安眠のためにヤツを吊るせ


人権主義者では全くない。ゴチエイではないが、人権なんてフィクションはどっかの教祖の鼻くそみたいなもんだと思ってる。けど、いやだからこそ、正義面して素朴に死刑万歳と叫ぶ連中の気が知れない。



刑事裁判の当事者は国家と犯罪者だ。検察は遺族や被害者の代理人ではなく、国の代理人であり行政機関の一部。刑罰は、遺族や被害者のためにあるのではなく、国家社会全体のためにある。死刑も当然そう。では死刑は社会全体の利益にかなうのか?

まず、再犯防止。更生の可能性がないと判断した場合、再犯を防ぐためこの社会から退場してもらう。という意味では、死刑でも終身刑でも措置入院でもあまり変わらない。終身刑は死刑よりコストはかかるが、死刑の場合にも冤罪リスクがある(※回復不能な冤罪のもたらす不信や不条理感は社会全体の安定にとって大きなマイナス。ちなみに冤罪リスクは警察官僚出身亀井静香が死刑に反対する理由のひとつらしい)。というわけで、どっちもどっち。

次に抑止効果。死刑の抑止効果は、統計上、ないとされる。死刑に値するような犯罪を犯すヤツに理を説いて理解不能というわけ。人外に人間の言葉は通じない。ので意味なし。

最後に、感情回復。社会全体が受けた傷を、死刑によって回復する。死刑は、応報感情を満たしカタルシスを得、文字通り浄化された社会は安定する。これは十分に役立ってる。ほら、実際、殺せ吊るせ鳩山弟GJでみんな大喜びだし。

というわけで、社会の感情回復に役立つし、死刑アリという結論になる。



<「おまえのいる崖の下にこいつらも落としてやるからな。それで気がすむだろう」 被害者と加害者をともに崖の下に放り出して、崖の上では何もなかったように平和な時が流れているのです>

――森達也著『死刑』で引用されている犯罪被害者遺族の言葉


社会全体の利益を考えたら、死刑はアリ。じゃあ遺族にとっては? たしかに俺たちの気分はいいけど、当事者はどうなのだろう? 死刑になってそれで満足? ですべてを忘れられるの? あいつが吊るされた様を想像して俺らは乾杯して気持ちよく寝付ける。彼らもそう?

遺族や被害者当事者の感情回復に、死刑を含む刑罰が役立つかというと必ずしもそうじゃない。刑罰は、国家が社会全体の利益のために行うものだ。現在の日本の刑罰は、罪を犯したものを社会の構成員として再復帰させる教育更生=社会全体の利益に主眼を置いている。そして、更生不可能性の先にある死刑も、当然、社会全体の利益のためにある。他の刑罰と違い、死刑だけが遺族や被害者のためにあるわけではない。

遺族が死刑を望むのは感情的に合理性があるとして、実際に死刑が遺族の未来に役立つかどうか、というのは別問題だ。例えば、欧米で行われている加害者と遺族の対話(被害者犯罪者調停)が遺族の感情回復に寄与することもあるとされる。もちろんそうならないこともあるだろう。が、重要なのは、死刑によってその機会を永遠に失われるということだ。



http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1139323.html


社会全体の利益を優先するなら死刑だって別に構わない、と思う。人権主義者ではないからね。たまにファシスト呼ばわりされるし。ドSだし。今夜の俺の安眠のためにヤツを吊るせ。って思う。

ただ、自分が遺族や被害者の代理人のような気持ちになったリ、彼らの味方のような振りをしたりはしたくないな。そこまで恥知らずなほど厚かましくはないし、馬鹿だと思われるのも嫌だし。なにより自分のカタルシスが何の上に積み上げられてるかくらいちゃんと知ってるからさ。

死刑・信頼・不安


 『少年をいかに罰するか』という藤井誠二との対談本の冒頭で、宮崎哲弥は<犯人を殺したいと思っている被害者やその代理人たる被害者遺族にとって、死刑廃止国家は「その野蛮な感情をコントロールせよ」「加害者を許せ」と命じる権力主体に他ならない>とし、死刑廃止論者を<権力の補完装置に堕している>と批判している(ただし宮崎自身も死刑廃止論者)。フーコーに依拠する宮崎に依れば、権力は元々「死なせる権力」だったが現代は「生かす権力」の作用が大きくなってきている。

<死の恐怖によって人々を従わしめていた古い権力から、健康な生を予め規格化し、それへの欲望を煽ることで管理やコントロールを強めていく新しい権力へと重心をシフトさせている>

 宮崎は、池田清彦の「権力は人々が動物としてあからさまな欲望をみだりに顕わにすることを欲しない」という言葉も引用しているのだが、ここで微妙に重なったのが、東浩紀が先日記していた「信頼ベース」「不安ベース」の議論。東は<信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ>という議論の在り方を批判している。以下、http://www.hirokiazuma.com/archives/000394.htmlより引用。


<信頼ベースの社会も「信頼できる人間」と「信頼できない人間」をまず区別するはずです。つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。そしてその境界にこそ、普通はナショナリズムだとかヨーロッパ中心主義だとかが入りこみます>
<不安ベースの社会は、「信頼できる人間」と「信頼できない人間」の区別などという曖昧なものは信頼せず、むしろ相手はつねに「信頼できない相手」だと考えて、その前提のうえでリスクを計算します。>
<不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方をすれば「動物」扱いする社会です。だからひどい社会といえばひどい社会です。しかし、社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いするのであれば、それはそれで人間的な社会とも言えないことはない。最悪なのは、だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く権力です。>

 
 信頼ベースの社会の問題は、要するに「異教徒も人間か?」ということだ。あるいは、チベットは見るけれどダルフールは見ない、とか。
 一方、不安ベースの社会の問題は、東も指摘している<排除型権力の拡張>であり、監視社会化だ。


では、信頼ベースの社会では死刑はどのように現れるか。それは<だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く権力>が、「人間ではない」と決めたものを「死なせる」という形で現れる。裁判は、誰が人間か否か どれくらい人間的でどれくらい人間的でないか、を決める場。人間に対しては「生かす権力」の行使をする権力主体は、非人間的(!)な存在に対しては「死なせる権力」を行使する。さらに言えば、非人間的なものの存在こそが、「人間的であれ」「正しくあれ」と健康な生への欲望を生み出し続ける、「生かす権力」の補完装置にもなっているともいえる。そして、それが人間=被害者遺族を含む社会の構成員全体の感情回復、ひいては信頼醸成に寄与する場合もある。
 ただし、信頼ベースの社会を志向し死刑制度を存置する場合は、「だれが人間でだれが人間でないのか」の線引きが恣意的に行われることを受け入れなくてはならない。条件は常に可変。だから宮崎も麻原も造田も死刑に出来る。くわえて、より情報公開が進み、もし実際に人々がその眼で死刑の現場を見たとして、果たしてそれでも「彼は人間ではない」と本当に言えるのか、というのは(別次元で)疑問。そこはまだ人間を信頼したいような気もする。


 信頼ベースの社会では死刑廃止論はどのように現れるか。やはりそれも<だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く>もの。「吊るせ」と喚きたてるものを「動物」とし、「人間的であれ」「正しくあれ」と諭す。クジラを食べるなんて非人間的、という線のひき方も同様。
 というわけで、信頼ベースの社会を志向し死刑制度を廃止する場合は、どのような線引きで死刑を非人間的とするのか、が問題。キリスト教的、ヨーロッパ主義的な価値観で線を引くべきか、否か。宮崎哲弥の批判は、その辺に思考が回らない素朴な人権主義者に対して向けられている。また宗教がない日本の現状で、社会の構成員全体の感情回復をどのように行うか、制度整備も必要。「愛国教育とか社会奉仕が必要」とする議論は、ここを補完しようとしている。


 一方、不安ベースの社会では死刑はどのように現れるか。それは誰も信頼できないからこそコストをかけて組み立てられる、セキュリティのための社会システムの一部(抑止というより排除)。監視カメラと同じ。ただし、「吊るせ」と叫ぶ側も吊るされる側も「動物」であり、「吊るせ」と叫ぶ自分も吊るされる側にまわる可能性が当然ある。<社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いする>以上、吊るされる側も吊るす側もは平等。したがって、重要なのは裁判制度と明確な基準。裁判が真実探求の場として常に機能することのみが「平等」を担保する。
 というわけで、不安ベースの社会を志向し死刑制度を存置する場合は、裁判というシステムの透明性、平等性が重要。被告人とその代理人にはあらゆる手段をとることが保障され、それを社会が了解することが前提。だが現状では中々望めない。


 最後に、不安ベースの社会では死刑廃止論はどのように現れるか。<社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いする>以上、権力を行使する主体も「動物」であり、「動物」に付与する「死なせる権力」はできるだけ限定的であるほうが望ましい、となる。従って公権力に死刑という暴力を許可しないという論理。
 また、不安ベースの社会を志向し死刑制度を廃止する場合、そもそも犯罪が起こりにくいセキュリティのための強固な社会システムの構築が必要。極度の監視社会化。SFチックな話だが、東が言及している「性犯罪者へのGPS常時着用」や、あるいはネット規制児童ポルノ規制なんかもこの流れか。 


 信頼ベースの社会から、信頼が音を立てて崩れているという現状。このまま不安ベースの社会へと雪崩をうち、一方で裁判制度に対するごく当たり前の理解さえ一般に共有できないのなら、死刑は廃止し、監視社会化を受け入れるべきなのかもしれない。あるいは信頼の再構築(例えば愛国教育などを通じて)が実現可能なのかどうか。宮台に依れば、日本的な伝統的な共同体的な価値観では刑事罰は軽く、「許す」社会だったという。「日本化」が進めば、西欧の人権思想とは別の価値観の下、死刑廃止に進む可能性もある。



 自分自身は、どれがいいとかどうすべきというのも、中々決められない。元々、社会から排除されるという表層だけ見れば死刑も終身刑措置入院も一緒だと思うような人間だ。是が非でも死刑にすべしとも思わないし、死刑非道とも思わないし、終身刑や隔離病棟でも同じことだと思うし、メヒコかどっかのように塀の中は別世界でもいいと思う。が、そういうことを言うと、死刑存置派からも廃止派からもヒトデナシの虚無主義者と罵られる(実話)ので、なるべく言わないようにしているわけだけど。
 ただし東の議論にはやや共感できる。信頼ベースの社会って、端的に気持ち悪い。それだったら、全員の頭にチップを埋め込むとか、DNA情報で未来の犯罪者特定とか、そんなウィリアム・ギブスン的な未来の方が多少はマシかとも思う。そして、不安ベースの社会に生きるのなら死刑は廃止すべきだろうな。


※<>内はすべて引用。

もういいよそれ持ってけよ それは君のもんだ


ポップ・ミュージックは元々「Don't trust over 30」なユース・カルチャーなわけで。10代20代の若者が主役だ。
その彼らがなぜCDを買わなくなったか。
それを、ひと月前くらいに「関係性」をキーワードにちょっと考えてみたのだけど。
でも↓を読んで、もっとずっと直球で、当たり前にストンと理解が出来た気がする。


世界大恐慌とか雑感
http://fladdict.net/blog/2008/01/post_130.html


とりあえず、わっかりやすい所だけ抜き出してみる。以下<>内は引用。
曰く、世界経済終了すると
<庶民の消費が冷え込めば冷え込むほど、携帯とかインターネッツの利用頻度・滞在時間は(おそらく)上昇>
そして
<コンテンツ制作コストを下げてお前等自分でコンテンツ勝手に作って勝手に遊べや、儲かりそうなら吸い上げて使ってやっからな的なCGMコンテンツへの注力が更に激化>
でもって
<長期的には、インターネッツ低所得者層のものってことになっていくんじゃないかと。貧乏が予想外に脱物質化社会を実現>


この筆者はインターネット業界におけるコンテンツの在り方とかアート性とかデザイン性を念頭に書いてるんだけど、こうやって読むと「あ、音楽も」って普通に思うわけです。
<貧乏故に無駄に対してリソースを配分する余裕がないので、即物性のある情報ばかりを求めアート性には金銭を払わない>なんて一文は、まさに。


若者っていうのは常に貧乏なもの。でももしかしたら10年20年前の若者より今の若者の方がもっと貧乏なのかもなあ、というのはなんとなく感じてはいたことだ。物価上がってるのにバイトの時給って僕が学生だった頃からかわってないもんな。
そしてこれからさらにどんどんみんな貧しくなっていくとしたら。
ユーザーがコンテンツを無償で手に入れたいと思うのも、まあ当然だよね。


でも、実はそれで逆に元気が出た。というか吹っ切れた。というか自棄か。でもないけど。
コンテンツは無料。音楽は無料。それでいいや。
どうせその流れには抗えないっていうのもあるけど、でも実際、試聴機で何枚も何枚も聴いて長い時間かけて吟味して手に持ったCDの中から悩みながら選んでる若者の姿を見ると、もういいよそれ持ってけよ、って思っちゃうもん。それは君のもんだ、って。
そうやってレーベルは外れて、アーティストとユーザーとが直に繋がる。というかユーザーとアーティストが同列で入れ替え可能な関係になる。
アーティストはお金を稼げない。ポップ・ミュージックは意味をなさなくなる。「それぞれがそれぞれにどうぞご自由にご勝手に楽しむ」って状況が進む。自由だ。でもみんなバラバラ――
でも、そこに何か、ひとつのきっかけや媒介するものがあれば、もしかしたら、また新しい何かが生まれるかもしれない。


音楽に限らず、文化は虐げられる側から生まれてきた。
貧乏人。下層階級。アウトロー。被差別者。異邦人。そして若者。
そしてもうひとつ。
新しいものは「ユーザーとアーティストが同列で入れ替え可能」なところから生まれてきた。
パンクもヒップホップもジャズもロックも。全部そう。


「それぞれがそれぞれにどうぞご自由にご勝手に楽しむ」って状況を超える、新しく大きなうねりが生まれるかどうか。
<自由意志で遊んでるつもりが、コンテンツ生産電池の一部として扱われる状況>から、それ自体を打倒するような新しい文化が生まれるかどうか。
分からないけど、そう信じたい。
僕らが経験できなかった60年代70年代のように何かが生まれるといいな。とそう夢想する。


クラブやライヴハウスといった現場は、これから面白くなるはず。きっと。
実際、都内でハコの数はまた少しずつ増え始めている。
渋谷を追い出された若者たちはどこへ行くんだろ?
どこかに新しい若者の街が出来るかもしれない。
そして、そこに新しい宇田川町が出来るかもしれない。


現場はこれからの若者に任せるとして、オーバー30になっちゃった人間としては、ネットにもっとインディペンデントなプラットフォームがあってもいいと思う。
大企業とかIT屋さんが作るのとは違う、音楽とユーザーの媒介。
音楽を売るのではなく作るのでもなく紹介するのでもなく、もっと本当の裏方として、そういうものを何か作れないかな、と。
どうせならそれをちょっと考えてみようと思う。



(追記)
ちなみに。
ポジティヴだから良いとかネガディヴだから悪いとか、そういう価値感はもってないので、アレなんだけど。
でも、これがポジティヴだといわれると、それはそれで微妙だなあ。
実際のところ、状況認識は変わってないどころかもっと厳しく受け止めざるを得ないし。
年末商戦から引き続き、今年に入って市況はさらに悪くなっている。
オリコン史上最悪の1週間、トップ20は2位以外全て歴代最低売上枚数」なんてのもあった。レコ屋さんのセールも続いてるし。
まあ、納得というか了解というか。ある種の諦念の域に達したっことかもしれない。

関係性を巡るメモ


相手に秘密を喋ることもできず、ゆえに程なく「間がもたなく」なる中高生の少女らにとって、相手に秘密を喋って悩みを共有して貰うことができ、なおかつオンデマンドで必要なときにだけ呼び出せる「遠い者」が、近い彼氏がいるがゆえにこそ勝利するのは、当り前なのだ。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=596&catid=4


2007年の映画作品への批評から、関係性においてより遠い者――「死者」や「過去」――が勝つ傾向を読み解く宮台センセ。
距離が遠いほど心地よい、安心、便利、というわけ。
そこから話を広げてケータイ小説へ。「関係性から脊髄反射へ」「関係性の短絡化」という流れに話は進む。


以下、思ったことを簡単にメモ。


ケータイ小説は、脊髄反射しやすい記号を散りばめた高性能な商品。「泣ける記号」を物量作戦で大量投下。筋より、整合性より、合理性より物量。記号の密度の濃さがユーザーの満足度に直結している。商品としては極めて正しい。

何が「泣けるか」はトライブ内で記号化。その記号に遭遇したときのマナーも作法化。トライブ内では「記号」に対する作法を逸脱せず、部族人としてのふさわしく振舞わなければならない。したがってトライブ=近い関係性は息苦しく、窮屈。

面白いのは関係性自体も記号化されていること。「親友」「友達」「恋人」「親子」のあり方も記号化作法化して、それぞれが役割を演じることが求められる。「秘密」を明かせないのもそこに由来。やはり閉塞的で窮屈。演じる必要のない=関係性に名前のない「遠い者」が心地よく、便利なのも納得。


音楽でも脊髄反射しやすい記号を散りばめた高性能な商品は作れるかも。肝は密度。川嶋あい一青窈ではまだまだ足りない。何のてらいもなく物量作戦で押せるのなら面白いかも。「恋空」の10分の1で売れてくれたら十分。
というのは皮肉でもなんでもない。音楽ビジネスの現状に対する解決策ではもちろんない(そんなのあるのか)。が、それでさらに数年延命できるのならば、メジャーはビジネスとして当然やるべき。

レッスンノート


音楽のレッスン
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3d1f9d50de25a2761161a068c3b1fdb3


残念ながら、恐ろしいほど正しいと思う。
確かに6が一番重要だ。始まりは10年前だった。
9も耳が痛い。経験も知識もあるベテラン(そして実際に決定権を握っている人々)ほど最後まで気付かない。というか気付きたくないのだろう。
3、7、10、12あたりはこの間書いたことと重なるかもしれない。
4はまだ希望になりうる。


教訓と言うよりも覚悟に近いものかもしれない。
既にモデルを確立した産業がそれを根底から揺るがす新しい大波に洗われる時、変化を受け入れ、それに対応することは容易ではないだろう。
賢明な人たちでも間違った選択をする。
僕自身も振り返れば気づくこともあるけれど、激流の中では思い至れなかったことも多い。
そして最後に15を付け加えるのなら、「それでも人生は続く」だろうか。