関係性を巡るメモ


相手に秘密を喋ることもできず、ゆえに程なく「間がもたなく」なる中高生の少女らにとって、相手に秘密を喋って悩みを共有して貰うことができ、なおかつオンデマンドで必要なときにだけ呼び出せる「遠い者」が、近い彼氏がいるがゆえにこそ勝利するのは、当り前なのだ。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=596&catid=4


2007年の映画作品への批評から、関係性においてより遠い者――「死者」や「過去」――が勝つ傾向を読み解く宮台センセ。
距離が遠いほど心地よい、安心、便利、というわけ。
そこから話を広げてケータイ小説へ。「関係性から脊髄反射へ」「関係性の短絡化」という流れに話は進む。


以下、思ったことを簡単にメモ。


ケータイ小説は、脊髄反射しやすい記号を散りばめた高性能な商品。「泣ける記号」を物量作戦で大量投下。筋より、整合性より、合理性より物量。記号の密度の濃さがユーザーの満足度に直結している。商品としては極めて正しい。

何が「泣けるか」はトライブ内で記号化。その記号に遭遇したときのマナーも作法化。トライブ内では「記号」に対する作法を逸脱せず、部族人としてのふさわしく振舞わなければならない。したがってトライブ=近い関係性は息苦しく、窮屈。

面白いのは関係性自体も記号化されていること。「親友」「友達」「恋人」「親子」のあり方も記号化作法化して、それぞれが役割を演じることが求められる。「秘密」を明かせないのもそこに由来。やはり閉塞的で窮屈。演じる必要のない=関係性に名前のない「遠い者」が心地よく、便利なのも納得。


音楽でも脊髄反射しやすい記号を散りばめた高性能な商品は作れるかも。肝は密度。川嶋あい一青窈ではまだまだ足りない。何のてらいもなく物量作戦で押せるのなら面白いかも。「恋空」の10分の1で売れてくれたら十分。
というのは皮肉でもなんでもない。音楽ビジネスの現状に対する解決策ではもちろんない(そんなのあるのか)。が、それでさらに数年延命できるのならば、メジャーはビジネスとして当然やるべき。