僕らはみんな
当たり前を揺らすこと。
化粧をするのも、男とキスをするのも、やりもしないクスリの歌を書くのも、セックスを歌うのも、国歌を聞いたことのない演奏で鳴らすのも、歌っちゃいけない(とされる)ことをわざわざ歌うのも、そのくせ良きパパだったりするのも、全部そのため。
常識をずらすこと。
それこそアートの本質に他ならない。左だ右だ上だ下だのレッテル張りには何の意味もない。それはバカボンのパパを反体制呼ばわりするのと似ている。
普通を疑うこと。
そんな方法論もはや陳腐な予定調和だというのなら、それは彼が拓いた道を指して誰かの足跡があると言うようなものだ。この国ではじめてそれをみんなの前でやってみせたのは彼なのだから。誰にも届かないゲイジュツではなく、ヒットチャートをかけ昇る歌で。
そして変化のさざ波をおこすこと。
おかげで僕は歩いている。
僕らはみんな、彼が歩いた後を、歩いている。