夢のはなし ― 映画『風立ちぬ』のこと


<ネタバレあります>



夢のはなしである。
実に美しい作品だと思った。
美しさ以外何もないということが、何より美しい。



「生きねば。」というキャッチコピーから最初に受けた印象とはまるで違う。
コピーが想起させるのは、喪失と失意を克己してそれでも生きる、という強い決意とメッセージだ。
だが、実際の映画は、それとは大きく異なる。喪失は、終盤、非常にさらりと描かれるだけだ。拍子抜けするくらいあっさりと。


毎度のことだが鈴木Pが作品から抽出するコピーは、映画という体験から何がかしらからを得たいと期待する人々に強く訴求する見事なもののだ。
が、一方で決して映画の本質を表しているわけではない。


主人公は、子供のころから憧れた仕事に就き、ロマンティックすぎる純愛を得、一瞬の、だが永遠の記憶に転化し得る時間を体験する。
映画は主人公の「夢」のシーンから始まり、「夢」のシーンで終わる。映画は何度も「夢」と「現実」を行き来する。
だが、僕にはそのすべてが夢のように見える。
軽井沢のホテルは桃源郷のようで、サナトリウムに降る雪は曇りなく白い。どのシーンも、どの風景も、どの言葉も、ありえないほど美しい。


夢は永遠に続くわけではない。近づく無謀な戦争、貧しい人々、非近代的な国家、様々な不条理、婚約者の病。
夢が終わることは最初から分かっている。
だが、映画が描き出すのは夢が終わる悲劇でも、それを乗り越える強さでもなく、その夢そのものに他ならない。


美しい夢を見る。朝目覚める。現実は変わらずそこにある。ただ、夢が美しかったということは変わらない。
映画の時間、僕らはその夢を目覚めながら見る。


自らの死期を悟り、主人公のもとを去った婚約者の行動を「自分の美しいところだけを見せたかったのだ」と評するセリフがある。
この映画自体も、同じだ。夢が終わったあとの現実ではなく、夢だけをただ描き切る。


芸術家はみんな、程度の差はあれ、夢の世界に生きている。
だが、その夢をここまで雑念なく描き出すことのみに執着し、そして成功した汚れなき作品を、僕はひさしぶりに観た。