神話と祭り、プロレスとバラエティ


 プロレスというのは奇妙なスポーツで、周知のとおり、試合の流れや勝負はあらかじめ決まっている。所謂ガチンコとは、そのストーリーをはみ出し真剣勝負をやってしまうことで、プロレスのリングでは基本的にガチンコはない。熱心なプロレスファンであれば、当然そんなことは承知していて、例えば「相手選手が予定外に失神してしまい、必死になって起こしてブック通りに試合を続けた」なんて逸話をうれしそうに話したりする。
 必殺技の出し合いなんていうのはガチンコでは出来ない。もし勝負にこだわるのなら「相手の技を受けて立つ」などという哲学はナンセンス以外の何ものでもない。だがレスラーたちは相手に技をかけさせ、それを耐えてみせる。効率は悪いがド派手で見栄えのする技を(時にはわざわざコーナーポストにまで登り)繰り出す。受けるほうは、相手が必殺技を出しやすいように的確な位置に倒れ、相手が飛んでくるのを待つ。そしてお話は続く。一体、どんな結末になるのか、ファンは勝負の行方を案じ、その先にある「選手間の遺恨や因縁を背景にした復讐劇」だったり、あるいは「新人からスターへと駆け上る成長物語」だったりというストーリーに歓喜し、熱狂し、涙する。
 プロレスは映画と同じだ。ただひとつ違う点があるとすれば、プロレスは全体はブックでも、ひとつひとつの技はガチンコだということだろう。殴ったふりではなく、本当に殴る。蹴ったふりではなく、本当に蹴る。だからそこにリアリティが生まれる。そして不思議なことに、その過程で、ただストーリーをなぞるだけなのとは違うとんでもない何かが、誰かの思惑を凌駕するような圧倒的な何かが生まれることがある。それにこそ観客は打たれるのだ。


 テレビ・バラエティも基本的にガチンコではない(『ガチンコ!』がガチンコでなかったように)。多額の予算と大勢の人員が投じられ、数千万の視線が注視する。リング上の才能(タレント)だけにすべてを丸投げするのはあまりに無謀だ。
 子供の頃の僕はそれを知らなかった。素朴にすべてが真実であると信じていた。たけしがさんまの車をメタメタにしたときは、本当にさんまに同情した。翌年、さんまがたけしに復讐することになった時は心底さんまを応援した。タケちゃんマンも嫌いだったし、いつもやられては立ち上がる健気なブラックデビルの方が好きだった。たけしはなんて嫌な奴なんだと思っていた。それからしばらくして「おいしい」という言葉を覚えた。ああ、と理解した。全部お話だったのだ。迫真の、真実味のある、だが全部フィクションだった。ガキだった自分がそれでがっかりしたかと言えば、確かにそういう面もある。だがそれ以上に、人を楽しませるということがいかに難しく、さまざまな準備や計算を必要としているかを知り、随分と感心したものだった。
 2008年、さんまが収録中のダウンタウンに会いに行ったのも、さんまと岡村の車が無残に破壊されたのも、西野がさんまに切れたのも、すべてブックだ。決められたストーリーの中で、彼らは与えられた役割を演じきる。ただし、プレロス同様、全体はブックでも、ひとつひとつの技はガチンコだ。だからそこにリアリティが生まれる。そのためにレスラーは体を、芸人は芸を鍛える。破壊されるさんまの車は本当にさんまの車でなければならない。流れは決まっていてもそこで繰り出される蹴りやパンチはホンモノでなくてはいけない。そしてだからこそ、時にあらかじめ用意されたストーリーを越える何かが見えることがあるのだ。ダウンタウンの汗やたけしの涙やさんまの赤い目や芸人たちの真剣な眼差しは、演技ではない。フィクションの中にありながら、そこはリアルなのだ。だから想定を超えたドラマ、つまり神が降りることがある。
 四角い枠の中でで彼らは身を削る。人々を楽しませるために。それが彼らの仕事だ。レスラーと芸人はよく似ている。ビビる大木がドン小西からジャンボ鶴田に戻され、有田は死神の扮装になってからも高田延彦を演じ続け、深夜のあの修羅場でもっとも多く振られ、もっとも多く笑いを取ったのがアシュラマンラーメンマンのコンビだったのは、多分、偶然ではない。


 プロレスを理解するためには前提を共有する必要がある。「選手間の遺恨や因縁」を知らなければ復讐劇を楽しめないし、あるいはその選手の立ち位置を知らなければ成長物語も楽しめない。物語を共有できなければ、楽しめないのがプロレスだ。そして、プロレス人気は凋落していった。
 物語の喪失は、現代社会のキーワードでもある。誰もが共有できた物語は失われ、それぞれがそれぞれの物語を生きている。テレビもまたそんな状況に苦しんでいる。テレビの画面はひとつ、だがその前で待ち構えているのは極限まで細分化多様化したさまざまな欲望だ。一歩でも何かの物語に踏み込めば、それを知らない他の大勢にはソッポを向かれることになる。テレビの画面で繰り広げられるのは、まるで神話を忘却した祭りだ。その祭りモドキは神に接続することなく、誰に何を祈るのかさえ忘れ、かつて覚えた身振りを表層的に繰り返す。そこには何の意味もない。
 この20年間のテレビ・バラエティの枠組みを発明した制作陣が、今回やってみせたのはそんな状況へのアンチテーゼ、もしくは最後の悪あがきだったと思う。「ダウンタウンとさんま」「たけしとさんま」「大竹しのぶとさんま」「ひょうきん族の面々のその後」「若者の成長物語」。古えの、だがみんながかろうじて共有できていた最後の物語を召還することによって、祭りに本来の意味を持たせた。たけしは最後御輿の上から米を噴射した。さんまは神と呼ばれ、拝まれた。
 それは後ろ向きの懐古主義なのかもしれない。哀れなノスタルジーかもしれない。だが多少なりともエンターテイメントに関わる人間としては、やはり、と共感せざるを得ないはずだ。神話がなければ祭りに感動できないのだ、と。