「自己責任」で安易に物事を片付けるやつらが嫌い

気分のまま、好きなことを好きなときに好きなように書いてきたのだけど、おかげで思いがけず自分の習性を発見することが出来たりする。たとえば、僕は「自己責任」で安易に物事を片付けるやつらが嫌いで、もっといえば、お手軽な「自己責任」論は、思考停止した頭の悪いやつらの常套句だと思っている、ということだ。


車を運転していて、対向車が突然車線をはみ出してきて、事故になる。そういう事態は、可能性という意味では、いつ誰に起こってもおかしくはない。車を運転するということは、そのリスクを負うことに他ならない。運転者は、意識しているかどうかにかかわらず、不条理な事故に遭うリスクを背負い込みハンドルを握ることになる。
僕はそれが嫌で車を運転していない。一歩間違えれば一巻の終わりだ。たとえ自分が100%落ち度がなく完璧に注意していても、他の誰かのミスや不注意で、自分が被害者にも加害者にもなりうる。そして、それで人生が変わってしまう。だから車は運転しないと決めているわけだ。
でもだからといって、誰かの身に不幸にも起きてしまったそんな事故を、自己責任だとは言わない。だから車に乗らなければよかったのに、とも言わない。当然、言わない。


ミニスカでコンパにでかけることや老人が生活の足しにと金融商品を購入することは、車を運転することと比べて、いったいどれくらい危険で愚かしいことなのだろうか? 車線をはみ出した対向車と衝突した運転者の「まさかそんな」という呟きと、酔いつぶれて輪姦された彼女や老後のたくわえをすべて失った老婆の呟きにどれほどの違いがあるというのだろう?
もちろん人それぞれ評価基準は違う。そんな理由で車に乗らない僕を臆病者だと罵る人もいる。証券会社のセールスマンが「ここで買わないのと損ですよ。リスクを冒さなければ儲けられませんよ」と言うように。リスクの評価というものはそういうものだ。人それぞれ異なる。彼女が教員志望の男子大学生たちを「よさげな好青年の集まり」と評価したとして、それを落ち度だと言い切れるのだろうか? それは不条理な事故に遭った人に「だから車に乗るなと言ったろ」と投げかけるのとたいして変わりない、と僕は思う。
判断の過ちや誤解は、僕らみんなが共有するものだ。そして、それがそうだとわかるのはいつもコトが起こったあとだ。「いや俺は実は元々危ないと思っていた」だなんて後出し気味な結果論で悦にいっている輩だけが、罪なき愚かしさと無縁だとは僕には到底思えない。いや、それがたとえどんなに不合理な判断であっても、それによって不幸になった人がいたら留保なき同情を捧げたい、と僕は思う。たとえば、古い話だが、イラクで死んだ彼を責めたり嗤う気にもなれないのだ。
生きるということは常に冒険だ。たとえ慎ましく暮らしていても思いも寄らぬ事態に陥ることもある。誰もがみんな今は想像もしてないような「まさかそんな」と背中合わせだ。そして、僕らが憎むべきは、その「まさかそんな」につけこむ、悪意や欲望や怠慢の方のはずだ。酔った女に投げられる目配せや老婆を惑わす言葉や振り下ろされた狂信者の刃にこそ、僕らは怒るべきだ。


他人にふりかかった不幸な出来事を見聞きしたとき、それを「自己責任」と斬って捨ててしまえば、不幸を自分の周りから遠ざけたように錯覚できる。不幸を背負い込まず、気持ちがいいだろう。もちろん自分はそんなに連中とは違い愚かではない、と信じるのは自由だ。が、問題は実際はそうでもないことがありうる、ということだ。
「自己責任」論とは、もしかしたらマッチョな弱肉強食肯定思想ではなく、むしろ臆病ゆえに現実を追認するための言い訳なのかもしれない、とも思う。あるいは世のあらゆる事象にはすべて原因があり理由があると思い込む、短絡的で幼稚な世界観の発露だろうか。不条理を直視できず、「自己責任」で物事を解決した気でい続けた挙句、今度は自分が「まさかそんな」と呟く羽目になるかもしれない、と想像することはそんなに難しいことではないと思うのだが。