ヴォーカロイドは武道館の夢を見るか?

初音ミクは一般人にも受け入れられる」とか「ヴォーカロイドはアーティストに取って代わる」とかいう素朴な一文を見ると、なんとなくほっこりしてしまう今日この頃。
「それはない」という直感を、チャットモンチー聞きながら文章にしてみる。
いや、「チャットモンチーはイイ」と、普段は糞ドープな音しか聞いてないような連中があんまり言うもんで。
とりあえずPVなんかで流れる曲を聴いた印象では、「演奏は下手だし進行は変だしハァどこが?」な感じだったが、あんまり言われるのでアルバム買って聴いてみたんだが・・・
なるほどね。チャットモンチーはイイ。
曲はやっぱりちょっと変だし演奏は上手とは言えないし斬新な音楽性でもないし声が魅惑的でもないしルックス最高なわけでもないだが、でもイイ。
なぜだろ? 
あえて言語化すれば、バンドを組みたいと一番最初に思った頃の気分を思い出させるからか。放課後、軽音部の部室、焦燥感、昂揚、安いアンプ、そんな感じ。『リンダ・リンダ・リンダ』を観た時の感じと似てるかもしれない。それぞれの具体的な体験は違えど、でも10代のバンドへの憧れを共有できる連中が「チャットモンチーはイイ」と言っているんだろう。


あらゆるアートと同じで、技能が高いことは音楽の本質ではない。メロの性能が本質でもない。演者のルックスでもない。それらが全て揃っていても、良くない音楽はたくさんある。
チャットモンチーの例はあくまでそのひとつ。
チャットモンチーはわかんねーと言う人は、それぞれうなずける体験を思い出してくれればいい。
芸術の良し悪しは、ひとつの価値基準、ひとつの美意識で計れるわけではない。※註1


初音ミクというヴォーカロイドは、それとは逆に、あるひとつの価値基準、ひとつの美意識で作られている。
パッケージから歌い方、声のトーンまで、明確にひとつの美意識で貫かれている。
だから誰に売りたいかもわかりやすいし、実際、その価値観、美意識を共有できる人間には素晴らしいものなのだろう。
だが、それを共有できない人間には、まったく魅力的ではない。
例えば、違う価値観で作られたヴォーカロイドが出れば、また違う人間が飛びつくはずだ。
V系な男性ヴォーカロイドなんて黒い服着た子らに売れそうでしょ? でも今、初音ミクを面白がってる人間には受けなさそうだ。
林檎やVIA TANIAやCAT POWERを完コピしたヴォーカロイドなら僕も買うかもしれない。でもアンジャラ・アキ風なヴォーカロイドなんて死んでも買うかバカヤロウ。
と、そういうことだ。※註2


だから初音ミクというヴォーカロイドが、マスに受け入れられ、歓迎されることはない。
それは初音ミクというヴォーカロイドを貫いている美意識に、いかにマスが冷淡であるかを考えればすぐに分かるはずだ。


もうひとつ。
では、ヴォーカロイドが進化し、使用者のあらゆる趣味に対応できるだけでの歌い方、声質のヴァリエーションを持ったソフトが登場したら・・・
それでもヴォーカロイドがアーティストに取って代わることはないだろう。
歌の上手さは音楽の本質ではないし、そもそもヴォーカロイドの歌は、誰(何)がどのように歌っているか、あまりに自明すぎて、聞き手がそこに思い入れや幻想や憧憬を忍び込ませられない。
ヴォーカロイドがどんなに上手に歌っても、人は音楽ではなく、そのヴォーカロイドの性能にしか感動しない。


さらにもうひとつ。では、ヴォーカロイドが更に進化し、パッと見、人間にしか見えない、というか誰がどう見ても人間な、というかもう人間そのものでしかないアンドロイドになったら・・・
それはもう人間って何かね。っていうウィトゲンシュタインな問いの世界になるので、哲学者が考えればいいことだと思うよ。



※註1 って、余談だが、最近、「ピカソの何がすごいか全然わからんちん」と書いてた子がいたね。それは単純に、感受性が乏しいだけだねかわいそうにとしか思わないし、ココがスゴイと説明することではないと思う。ピカソのすごさはわからなくても生きていける。逆に電車の窓を流れる何気ない景色にまで美を見出しちゃうような子の方が生きにくそうだもの。
http://chaosch.blog106.fc2.com/blog-entry-168.html


※註2 それ故「初音ミクPerfumeを同列で語った人への恨みも含めて書かれて」いるという「初音ミクの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい」というエントリーは、「Perfumeの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい」でも成り立ちうるという、どうしようもない矛盾を抱え込んでいるのだが。
http://d.hatena.ne.jp/araignet/20071020/1192811893