他人の信仰には口を出さない主義なんだけど


ネタ的には、前の続きみたいな。


http://blog.goo.ne.jp/funamushi2/e/9a10e0e7305d02e089c22700d0c03bba


以下、引用。

あらゆる問題の外側にある恋愛や結婚などの問題は、すべての内在的な苦しみを解放できる力を持つ「唯一共通の拠りどころ」なんですよ。

すべての希望が子供に詰まっています。そして子供の誕生は人生の一つの終着点でもあります。


恋愛、結婚、出産であらゆる苦しみから救済される。というか、それでしか救済されない。そういう「信仰」というわけ。
他人の信仰には口を出さない主義なんだけど(信じるものがある人は大体それだけで幸せそうだもの)、ただその苦しみがその信仰自体に由来しているようにも見えるのは、ちょっと切ない。
たとえばそれは禁欲を課すからこそ「欲望」が生まれ、遡及的に禁欲が苦行になるのと同じ構造。


逆に価値を転倒させることによって得られる自由もある。それで永遠に外れるはずのなかった足かせが(外れるのではなく)消えてなくなることもある。
逃避、ではない。「そもそも自分にとって何が最も価値があるか」を決める力を、自分の手の中に取り戻すだけ。
何のためにって、もちろん自分が楽しく生きるために。
それこそが「弱者」にとって一番手っ取り早く合理的な武器のはずだ。


でも「その世界観の天と地と昼と夜をあべこべにしよう」といってるようなもので、決して簡単じゃないってことも重々わかってはいるんだけどね。
試しにとりあえず形から入ってみるとかどうだろ。ビーガンになってロハスな生活を送ってみるとか、動物愛護団体にはいって捕鯨船に石投げてみるとか、嫌韓になっていろいろ綴ってみるとか、手頃なところから始めてみるのがいいと思う。お試しで改宗。いや、ちゃかしてるんじゃなくて、マジで。


…って、まあ、余計なお世話だよな。うん。