を読んで思い起こしたのは池袋の通り魔事件だった


http://anond.hatelabo.jp/20071114015351 を読んで思い起こしたのは、池袋の通り魔事件だった。単純な連想で、それ以上の深い意味はない。そういえば、あの犯人が襲ったのはカップルや夫婦で、本当の意味での無差別ではなかったなあ、と思い出した。不条理に対する怒りが、また別の不条理を引き起こしたわけだ。


なんで自分だけこんなに不幸で周りの奴らは幸せなんだ?と怒りをぶちまけても、当然、その問いに答えも、ましてや救いも与えられない。理由もないし、意味もないのだ。たしかに不条理だが、そういうものだ。犯人の、元記事の筆者の、被害者の、なぜ?という問いは虚空に吸い込まれて消える。


実家の近くに古戦場があり、中学生くらいの頃、夜、塾帰りにふらっと寄ったりした。そこは小さな崖で、一夜のうちに何百人も兵が死んだという。暗い崖を覗いてみる。ありふれた、だが当人達からすれば必死に生きた生がここでぷつっと途切れた。子供がいたかもしれないし、いなかったかもしれない。恋人がいたかもしれないし、いなかったかもしれない。そんな人生がここで途絶え、無数に折り重なり、それぞれに細々あった喜びとか悲しみとかはすべて些細な枝葉として忘却され、歴史の一コマに収斂された。
受験生だった自分は、よくそこで小一時間ほど過ごした。すると、受験勉強も偏差値もくだらなく、どうでもいいことに思えた。


いま、ここで、これだけ活き活き罵り合ったり馴れ合ったりしている僕らの生も、いずれそうやって消え失せる。いま、必死になっている一切合財のすべてがいずれ無に帰る。
あなたもわたしもどんな人間もやがて死ぬ。というどうしようもない真理は、常に無意味性や不条理性という影を落とし続ける。そこから逃げれない限り、人生に意味はない。生きる意味を担保してくれる神様もいなければ、誰か/何かの意思があるわけではない。目的もない。理由もない。


そして、意味もなく理由もないそんなカオスを、ロゴス化し、名付け、価値を与え、善悪を定め、秩序立てたのがこの世界だ。
その中でのみ、人は役割を得て、目的を得て、喜びと悲しみを得て、人生の意味を得る。


昔、「なぜ人を殺してはいけないか?」とテレビで問うた若者がいた。居並んだ識者は誰も明確に答えられなかった。「殺すな」という法や倫理や道徳を支える社会契約論であれ聖書の一節であれ、その問いに答えることにはならない。なぜなら、社会契約論や聖書を説き理解させたその上でも、それでもなお「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いは可能だからだ。「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いは、ロゴスを超え、カオスへと伸びる。世界の内部から、その外へ、善悪も意味もないカオスへと放射された問いだ。その問いに答えは与えられない。なぜ?という問いは虚空に吸い込まれて消える。


カオスの影は、人を不安にする。
それがこの世界を支えている秩序/ロゴスの外を示唆するからだ。カオスの影は、これまで疑うことのなかったあらゆる価値を動揺させ、無化しようとする。外から差すその影は人々を恐怖させる。
例えば、精神疾患に対する世間一般の漠然たる根拠のない恐怖心は、そこに由来する。彼らの言動は混沌としている。彼らはこの世界の秩序/ロゴスの外、混沌に生きるカオスの住人だ。
だからこの世界で精神疾患の患者は「ただの人」でいることが出来ない。「異常」と分類され、「正常」になるために「治療」が施される。もちろん、正常/異常と分ける基準は、あくまでこの世界が生み出した便宜上のものだ。カオスの住人はそうやって世界の中で役割と意味と居場所を与えられ、そこに押し込まれる。カオスの住人を「異常者」としてロゴスのうちに分類/取り込むことにより、この世界は安定する。刑務所や精神病院は、カオスをロゴス化する社会システムだ。


死刑と言うのも、奇妙な刑罰だ。
命の尊さを説きながら、その上で命を奪うのだ。矛盾している。子供の頃からずっと不思議だった。
死刑は、「殺すな」という法や倫理や道徳を超え、殺す。死刑もロゴスを超え、カオスへ伸びる。
世界の終わりを現出させようとした麻原や、ネズミ人間の宮崎や、自分が神になった池袋の造田は、おそらくカオスの住人だと思う。彼らは混沌に生きているように思える。ロゴスの外にいて、善悪の判断がつかないのであれば、通常は刑罰とは違った形で社会から排除される。だが、彼らに下されるのは死刑だろう。実際、造田の死刑は確定している。その良し悪しにはあまり興味がないし、別にそれで構わないと思っている。いずれにしろ、彼らがこの社会から消えることには違いがないからだ。冷たいようだが、当事者でない限り、どちらでも同じことだ。
ただ「なぜ隔離ではなく死刑なのか」には興味がある。そこにこの世界を支えようと立ち上がる、茫洋とした、だが強固な意志を感じるからだ。彼らの罪は、この世界を支えている秩序/ロゴスの外を示唆したことだ。ロゴスを超えた罪には、ロゴスを超えた刑が与えられる。何気ない日常に、不条理というカオスの影を持ち込み、この世界の成り立ちを動揺させた者に対して、この世界は容赦がない。


http://anond.hatelabo.jp/20071114015351 は運営元から問題視され、結局、書いた本人によって削除された。現在読めるのはキャッシュからの転載だ。削除されたことの良し悪しにもあまり興味がない。ただ当然そうなるだろうな、とは思う。カオスの影を持ち込み、この世界を動揺させ得る言説に対しても、この世界は容赦がない。そしてそう想定できなかった元記事の筆者は、やはりカオスの住人なのだろうとも思う。治療したほうがいいというのは、まあ、そうだろう。この世界の論理でいえば。


ただ、それと同時に、元記事を読んだ時、あまりに痛快で笑いそうになったのも確かだ。
もっと書けまきちらせぶちまけろと思った。


夜、古戦場でじっと座っていた中学生だった頃の自分は、リンチやキューブリック中原昌也やノイズ・ミュージックが好きだった。意識はしていなかったが、子供なりにロゴスの外へ逃れカオスに触れようとするものが好きだったと思う。
あの頃から比べたら、随分と健全になった。大人になるとはそういうことだ。いまやロゴスに取り込まれた一人前の社会人だ。
ただ、それでも、やはり時々この世界の外を覗き込みたいという誘惑が頭をもたげることがある。退屈で固定化した世界を破壊し、あらゆるものが突如として流れ出し、溶け出す。それは言い様のない快感なのだ。
変態的なセックスでもグロい映像でも変な薬でも爆音の音楽でも何でもいい。
世界が揺れ、ずれていく。
ロゴスを超え、カオスへ伸びていく。
世界の外側から差す影の痕跡。
そんなゾクゾクする何かが欲しくて仕方がなくなる。
だからもっと書けばいい。
もっとまきちらせ。もっとぶちまけろ。