「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年


忘年会で何キロ太っただろう。焼酎のビンはしばらく見たくない。
とにかくいくつもの忘年会でいろんな音楽業界の人間と話をしてきた。
流通、メジャー、インディー、マネージメント、小売、媒体など、それぞれポジションは違うが、みんな総じて「あきらめムード」である。
自嘲自虐なギャグもすべりぎみで、舐めあうには深すぎる傷を負っている。


2007年がどんな年だったか。音楽業界にとってはいよいよ冬の時代の本格到来である。
一昨年より去年の方が悪く、去年より今年の方が明らかに悪い。
冬の時代の到来、なんて書くとそのうち春が来そうだが、実際はそんなことはないだろう。
たまたま日の陰った不況というよりは、もっと構造的な問題、本質的な問題なような気がする。
だから本当は「死期を悟った」とでも書いたほうがいいかもしれない。
あるいは「終わりの始まり」とでも。


忘年会も一段落し、時間もある。ちょうどいい機会だ。(感傷的に、そして大げさに言えば)自分の青春を捧げた大好きな音楽を取り巻く世界が今どうなっているか、僕の目から見た現状を書きとめておくのも悪くない。



CDの売れない理由として、音楽の質の低下をあげるむきがあるが、それは根本的に間違っている。
音楽に限らずコンテンツ産業に関わった人間なら共感してくれるだろうが、売れる売れないと質の良し悪しは今も昔もあまり関係ない。
当然だが、2007年にも質の高い音楽は無数にある。もちろん質の高くない音楽も無数にある。
ちょうど10年位前、CDが最も売れていた時代にも質の高い音楽と質の高くない音楽がそれぞれ無数にあった。そしてガシガシ売れていたのはむしろ質の高くない音楽だった。
いや、質の高くない、と断じるのは語弊があるかもしれない。「そもそも音楽における質とは何かね?」という問題もある。ので志の高い低いで言い表してもいい。
かつてはあまり志の高くない音楽が売れていた。今は売れない。


では、なぜ、売れなくなったか?
もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。
彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。
10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。
当時、テレビはまだエンターテイメントの中心にそびえ立っていて、その中でもドラマは若者であれば「誰もが見るもの」だった。
学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。
だからこそ、「みんなが聞くからみんなが聞く」というインフレーションを起こし、ミリオン・ヒットが量産されていった。それが10年前だ。


だが状況は変わった。
テレビのエンタメ王者としての権勢には陰りが見え、娯楽はどんどん多様化していく。特に台頭したの新しいコミュニケーション・ツール、携帯だ。
カラオケは相変わらずコミュニケーションの場として堅調だが、カラオケで歌うためだけならわざわざCDは買わない。レンタルや友達に借りる、あるいは違法ダウンロードしたものをCDRにコピーできればそれで十分だ。
若者はそれよりも携帯電話にお金を使う。パケ死寸前なのに3000円もするCDなんて買えるわけがない。


音楽ビジネスはもともと純粋な音楽ファンを相手にした商売ではなかった。
それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介にしたコミュニケーションに興味ある一般層がターゲットだった。
カラオケはいまだに人気があるが、コピーで事足りるようになった以上、CDは売れない。
ロックフェスのチケットはいつもソールド。友達や恋人と一緒に夏の思い出を作る。だがそこに出演していたアーティストのCDは売れない。


CDを聞いてもモテない。CDを聞いても友達は出来ない。CDを聞いても関係性は作れない。だから売れない。
「みんなが聞かないからみんなが聞かない」というスパイラルにどんどん落ち込んでいく。



同じような状況はコンテンツ産業はどこも共通なのかもしれない。
例えばゲーム業界。


「いいソフトさえあれば勝てる」という常識が変わりはじめたhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071225/143944/


Wiiのようにみんなで楽しめるハードがヒット。ネットワークを使ったゲームや脳トレのようにわかりやすくコミュニケーションのネタになるものも売れる。だが、ひとりでも楽しめるマリオやゼルダは伸び悩んでいるらしい。


『モテたい理由』関係性がすべての時代
http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0801/index04.html


同じく不況下の出版業界だが、ファッション誌だけは違う。
だが「関係性がすべて」なのは昔から変わっていないような気がする。ただ携帯電話やPCなどコミュニケーションツールの進歩でより顕在化しただけだろう。
単純に、すべてである関係性を築くために(モテるために)必要なものが変化したのである。


ファッション誌はモードをシフトすることで全時代に対応する。
ゲーム業界はWiiやDSを生み出して、ゲーム・ファンではない一般層を取り込んだ。


一方でCDを聴くという行為はどこまで行ってもごくごく個人的なものだ。それ自体は変えようがない。
誰かと一緒にCDを聴く、というシーンがどれほど日常的にありうるか、想像してみて欲しい。
車の中でさえ、いまやナビのHDDかiPodだ。借りたCDからリッピングするか、どうにかしてファイルをコピーできれば、わざわざCDを買う必要はない。
CDを聴くということが個人的な行為であり、そしてそれが誰かと関係性を築くのに寄与しない以上、CDは2010年になっても2015年になっても売れない。
CDだけじゃない。音楽配信だって状況は同じ。実際うまくいっていないし、これからもうまくいかないだろう。
あ、携帯の着うただったら、誰かと一緒に聞くっていうのもありうるかもしれない。でも、ほら、違法着うたが正規の配信を超えたというニュースが最近流れたばかりだ。結局、レーベルにもアーティストにもお金は分配されない。


やっぱり、そろそろ死期を悟る頃だろう。寿命なんだ、って。



音楽業界がなくなっても音楽さえ残ればいい、と思う人がいるかもしれない。
でも、それは違う。


スタバとアップルの提携が見せてくれるメディアビジネスの将来
http://satoshi.blogs.com/life/2007/12/post-5.html


この記事の中で<「CD/DVDの物流」という既得権をたてにアーティストから搾取する大手レーベルの中間マージンを排除し>という一文がある。
だが実際のところ、メジャー・レコード会社は決してアーティストから搾取していない。いや、正確に書くのならば、メジャー・レコード会社は決して大多数のアーティストから搾取していない。
ミスチルでも宇多田でもドリカムでも誰でもいいが、彼らのように売れているアーティストたちには、もっと利益が分配されてしかるべきかもしれない。浜崎ひとりがエイベックスの社員とその家族の生活を支えていた状況に比べると、彼女が手にしたものはあまりに小さい。彼女たちのようなビッグ・ネームは、その功績に比べると分け前が小さいという意味で、メジャー・レコード会社から搾取されているといえるかもしれない。
だが、そうではないアーティスト――レコード会社が抱えるアーティストの99%――は違う。彼らは決して搾取されていない。彼らのCDは、そのリリースに関わった社員の給与分も利益をあげていないこともある。商業的な結果だけを見れば、赤字なのだ。
そういった大多数のアーティストの作品は、ごく一部のビッグ・ネームが稼ぎ出した利益から作られている。赤字もその分け前から補填される。そうやって育成された新人の中からまた次のビッグ・ネームが生まれる、と信じるからこそである。
売れていないアーティストは当然大金を手に出来ない。だがそれは搾取とは違う。


2007年は海外のビッグ・ネームたちのレーベル離れが進んだ年でもある。レディオヘッド、マドンナ、ナイン・インチ・ネイルス、プリンス。彼らも搾取されていると感じていたのかもしれない。とにかく彼らビッグ・ネームは、レコード会社にマージンを抜かれることを拒否し、自立の道を選んだ。ビッグ・ネームだからこそ出来ることだ。


ビッグ・ネームのレーベル離れ。その結果、引き起こされるのは新人アーティスト達の制作環境の悪化だろう。レーベルは、確実に売れるものしかリリースできなくなる。海のものとも山のものともわからない新人にお金なんてかけられない。新しいものは世に出にくくなる。
CDが売れていた10年前はインディー・シーンも活況だった。ミリオンヒットの生み出す利益のおかげで、レコード店も「売れないけど志の高い音楽」を店頭に並べる余裕があった。メジャー・レコード会社も新人開発を積極的に行った。90年代、インディーからスターが生まれ、アイドル誌のカウンターでしかなかったロッキング・オン・ジャパンが急速にメインストリーム化していった。


音楽業界が死んで、真っ先に道連れにされるのが「売れないけど志の高い音楽」だ。
実際にまずインディー作品から順に店頭から消えていっている。



2008年にはいくつかのメジャー・レコード会社が静かにレーベルとしての活動をとめるだろう。たとえ、会社として潰れなくてもレーベルとしての機能は停止する。
インディー・レーベルはその比じゃない。バタバタと毎月のように倒れていく。
いくつかの着うた配信会社や音楽配信会社も静かに撤退していくもしれない。
音楽雑誌はこれまでもいくつも廃刊したけれど、さらにまた何誌か消えるだろう。
音楽専門放送局だって先行きは見えない。広告営業は相当厳しい状況のはずだ。
2007年は、厳しい状況のHMVが証券会社に買われ、シスコやマンハッタンが店舗を閉じた。2008年も専門店はいくつも潰れるだろう。それでもタワーには頑張ってもらわないと。タワーがHMVのようになったら、なんてことを本気で心配するときが来るとは思わなかった。でもタワーだって楽ではないのは知っている。若い店員たちがどれほど苦しんでいるのかも。


死期を悟った時、人間は何をするべきだろう?
それでも必死に解決策を探してあがくか? 奇跡を信じて祈るか?
でもどうしたって最期の時はやってくる。
幸か不幸か、実際に僕らが命を落とすわけではない。
音楽業界が死んで音楽が死んでも、僕らは死なない。
音楽にしか興味がなかった人間が、それぞれどうやって第二の人生を生きるかを考える。
音楽業界にとって、2008年はそんな年になるような気がする。






(追記 2008年1月1日)


補足。というかブクマへのリアクション。
まず、ポジショントークといわれるのは仕方ないと思う。業界の内部からの視点であることは間違いないわけで。
明確に「業界の中の人」として書いているので、その辺は割り引いてください。
けれども、「だから音楽業界を守ろうよ」とは全然思わないし、そんなことが出来るとも思っていない。
ただ一方で、自分たちの仕事への自負のようなものはもちろんある。やはり情熱を傾けてやってきた仕事だし、「レコード会社なんてなくても全然OKだよ」とは言えない。
あと国内に限っていえば、死守しなければいけないような既得権益なんていうのもないです。「権益だなんて…大層な…」と笑っちゃうようなショボイ状況です。


もうちょい先のビジネスモデルについては、現状では広告モデルが一番現実的に想像しやすいかなあ。
特に、新聞の付録として自分の新作を提供したプリンスのやり方は示唆的。もちろん、この新聞社は販促費を殿下に支払っている。


プリンスがUKでニューアルバムを無料配布!
http://notrax.jp/news/detail/0000003813.html


日本でもそのうちありうるかも。間に入るのは当然代理店さんでしょうね。
というわけで、レコード会社が代理店化する、あるいはレコード会社に代理店がとってかわるというのはありそう。
さすがにパッケージに広告を載せるのは、曲がりなりにも「アート」を名乗る以上、アーティストが嫌がりそうだけど。でも、裏ジャケがユニクロやリーバイスの広告になったCDが発売されてもそんなには驚かない。


あと、筆がすべり気味に「音楽業界は死ぬ」なんて書いちゃったけど、とはいってもレコード会社が全部なくなることはないと思う。寡占的に数社が残る。数は多くはないだろうけど、レコード会社という機能を必要とするユーザーやアーティストは一定数存在し続けるだろうし。
ただし、それで「業界」と呼べる体を成しているかどうかは疑問。業界としては死んだに等しいとも言えるかも。
まあ、元々日本の音楽業界は、家電メーカーが自社製品を売るために支えていたわけで。それ以外でも、お金を持っててワンマン経営な会社が、社長のオモチャのようにレコード会社を持ってる例はいくつもある。
パトロンに庇護されていた中世の音楽家のように、残るところは残るはず。




(さらに追記 2008年1月2日)


またリアクション。
後出しみたいで申し訳ないが、書いてるのはインディーの人間です。
ただし、メジャー/インディーの区別は、この話に関してはあまり関係ないかと。
メジャーもインディーも、レコード店というユーザーと直接対峙する媒体を共有しているし、マーケットも共有している。ので、元の文に書いたとおり、小売店がメジャー作品で大きな利益があげられないと、より売れないもの、つまり多くのインディー作品から入荷を抑制されていくわけで。
インディー界隈も「メジャーがどうなろうと知らんわ」と思っていたら、実際はそうもいかなかった、という。


実際、昔に比べたらメジャー/インディーは接近してきている。
メジャーの体力が落ちて新人開発を行なう余裕がなくなってきているので、その役目を以前にも増してインディーが担うようになってきており、交流もさかん。
インディーからメジャーへ、メジャーからインディーへという人的移動も全然珍しいことではない。
三大(誤記)四大メジャーが君臨する欧米に比べたら、日本は中小乱立型で、メジャーとインディーの違いは比較的小さい。


まったくの余談だけど、実は日本ではそもそも何をもってメジャー/インディーをわけるのか、というのが結構曖昧。
一応、「レコード協会に加盟しているか否か」とか「どの物流を使っているか」とかという目安はあるが、一般的にインディーと呼ばれている会社も、レコード協会に加盟していたり、メジャーと同じ物流会社を使っていたりする。


もう一点。
音楽に限らず、コンテンツを出来るだけ安く、もしくは無償で手に入れたいという欲求がユーザーの間に非常に強くある、ということは、それはもう日常的に感じてる。
その良し悪しには個人的にはあまり関心がなく、ただ「そういう状況なんだな」と認識しているというだけだけど。
ただし現状で単に値段を下げるというのはもうビジネス的に破綻していくだけなので、前述のプリンスのように広告モデルを構築するしかありえないんじゃないかと。でも、それはもうちょっと先の話でしょうね。


一方で面白いのが、コンテンツ自体ではなく、それを通じて誰かと関係性を築けるようなプラットフォームにはお金が落ちるということ。例えば、ニコニコ動画の有料会員のように。
元の文にも書いたけど、カラオケやロックフェスのようなプラットフォームにはまだお金が落ちている。フェスのチケットは出演者(コンテンツ)の発表前に売れちゃうわけです。






(もう一度追記 2008年1月3日)


同じ業界のライターさんからトラバをもらったのでリアクション。


終わりの始まりのあとに(1)
http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-3.html


筆が感傷的に走りすぎ、というのは反論の余地もございません。まあ、現場感ということで割り引いていただければ。
ただ「音楽」ではなく「ポップ・ミュージック」「ポピュラー・ミュージック」と書けば、もうちょいわかりやすくなったかな、と思っています。
もちろん、個々人の音楽へ関わりというのはなくならない。ニコニコでもマイスペでもジャズでも80年代歌謡でも洋楽でもそれぞれの中での「いや俺はこれ好きだけど」という盛り上がりはあるのだろうし(実際ブクマでもあったし)、「それぞれが曲を作りそれぞれが曲を聴き」というパーソナルとパーソナルの間でのコンテンツのやり取りは続くだろうし、その媒体になるのがネットだというのも確かですね。
その良し悪しはいろいろありすぎて一言では言い表せないけれど、仕事を別にすれば、個人的には好ましい流れだと思っています。ただ、トラバ元でも書いている通り、それではビジネスモデルとしては中々成り立たないのも確かで。
そして、それは単に儲からないということだけでなく、「ポップ」や「ポピュラー」という概念の崩壊も意味しているわけで。「物語の喪失」なんてレベルですらなく、単にお互いが聴いている曲をお互いが知らない、という状況がデフォになるわけです。ITMSamazonもマイスペもYoutubeも、「膨大なデータ量の中から各自好きなものに辿りついてください」というモデルですし。


サマソニのトリでレディオヘッドが「クリープ」を演ってみんながワーってなる、っというのはその音の良し悪しだけの話ではないですよね。レディオヘッドがあのビジネスモデルを構築できたのはそれを支えるポピュラリティーを既に獲得していたから、というのはちょっと皮肉だなあ、とは思う。


話は変わりますが、しかし、あのCDが売れていた10数年前に「これからはパーソナルな関係性がすべて」と『H』を創刊した渋谷さんはさすがでした。ネットの台頭で誌面を使った方法論はうまくいかず、雑誌の内容は全然違う方向へ変容しましたけど。
あとROさんは、見事にコンテンツ商売(雑誌)からプラットフォーム/コミュニケーション型(フェス)へ移行していますね。細かいところでいろいろ思うことはありますが、ただ、やっぱりさすがだなあと。


レーベル側にも独断専行でいろいろ試行錯誤できるカリスマがいればいいなとは思います。
しがらみの多い外資やテレビ系、基礎体力の弱いインディーは難しそうですね。となると、やっぱりエイベックスさんくらいしか思い浮かばない。と自分で書いてて驚くわけで。10年前、エイベックスに自分が何か期待するとは思わなかったなと。
そのエイベックスが昨年末にリリースした、スチャダラとスライ・マングースによるユニット名が「ハロー・ワークス」だったっていうのは笑えないジョークです。世間的にはSDPとスラマンがエイベックス所属っていうのもそもそも不思議な感じかもしれないですが。というか教授のレーベル、commmonsもエイベックス傘下なんですよね。つまり、ボアダムスも。実際、エイベックスがメジャーでは最も先端的なことを試みてるわけで。そうやってシーンを育成しているわけです。
あと、タワーの筆頭株主がドコモだって言うのもこうやって考えると味わい深いですね。ナップスターのような「パッケージ→データ」という小改革ではなく、広告モデルやプラットフォーム/コミュニケーション型への根本的な改革の提案があればいいな、と。まあ、ただ、現状認識では一致しても「で具体的に何をすればいいの?」というところでみんな止まっちゃうわけですが。


最後にみなさんコメントありがとうございます。
想像以上に多くの人(それこそ実際にインディー作品が届いている人数よりはるかにはるかに多くの)に読んでもらえたみたいで、興味深い意見も沢山ありました。
それを読みながらいろいろああでもないこうでもないと考えてる自分に気づき、「なんだ、結局、解決策を探してあがいてるんじゃん」と笑いました。