ヴォーカロイドは武道館の夢を見るか?

初音ミクは一般人にも受け入れられる」とか「ヴォーカロイドはアーティストに取って代わる」とかいう素朴な一文を見ると、なんとなくほっこりしてしまう今日この頃。
「それはない」という直感を、チャットモンチー聞きながら文章にしてみる。
いや、「チャットモンチーはイイ」と、普段は糞ドープな音しか聞いてないような連中があんまり言うもんで。
とりあえずPVなんかで流れる曲を聴いた印象では、「演奏は下手だし進行は変だしハァどこが?」な感じだったが、あんまり言われるのでアルバム買って聴いてみたんだが・・・
なるほどね。チャットモンチーはイイ。
曲はやっぱりちょっと変だし演奏は上手とは言えないし斬新な音楽性でもないし声が魅惑的でもないしルックス最高なわけでもないだが、でもイイ。
なぜだろ? 
あえて言語化すれば、バンドを組みたいと一番最初に思った頃の気分を思い出させるからか。放課後、軽音部の部室、焦燥感、昂揚、安いアンプ、そんな感じ。『リンダ・リンダ・リンダ』を観た時の感じと似てるかもしれない。それぞれの具体的な体験は違えど、でも10代のバンドへの憧れを共有できる連中が「チャットモンチーはイイ」と言っているんだろう。


あらゆるアートと同じで、技能が高いことは音楽の本質ではない。メロの性能が本質でもない。演者のルックスでもない。それらが全て揃っていても、良くない音楽はたくさんある。
チャットモンチーの例はあくまでそのひとつ。
チャットモンチーはわかんねーと言う人は、それぞれうなずける体験を思い出してくれればいい。
芸術の良し悪しは、ひとつの価値基準、ひとつの美意識で計れるわけではない。※註1


初音ミクというヴォーカロイドは、それとは逆に、あるひとつの価値基準、ひとつの美意識で作られている。
パッケージから歌い方、声のトーンまで、明確にひとつの美意識で貫かれている。
だから誰に売りたいかもわかりやすいし、実際、その価値観、美意識を共有できる人間には素晴らしいものなのだろう。
だが、それを共有できない人間には、まったく魅力的ではない。
例えば、違う価値観で作られたヴォーカロイドが出れば、また違う人間が飛びつくはずだ。
V系な男性ヴォーカロイドなんて黒い服着た子らに売れそうでしょ? でも今、初音ミクを面白がってる人間には受けなさそうだ。
林檎やVIA TANIAやCAT POWERを完コピしたヴォーカロイドなら僕も買うかもしれない。でもアンジャラ・アキ風なヴォーカロイドなんて死んでも買うかバカヤロウ。
と、そういうことだ。※註2


だから初音ミクというヴォーカロイドが、マスに受け入れられ、歓迎されることはない。
それは初音ミクというヴォーカロイドを貫いている美意識に、いかにマスが冷淡であるかを考えればすぐに分かるはずだ。


もうひとつ。
では、ヴォーカロイドが進化し、使用者のあらゆる趣味に対応できるだけでの歌い方、声質のヴァリエーションを持ったソフトが登場したら・・・
それでもヴォーカロイドがアーティストに取って代わることはないだろう。
歌の上手さは音楽の本質ではないし、そもそもヴォーカロイドの歌は、誰(何)がどのように歌っているか、あまりに自明すぎて、聞き手がそこに思い入れや幻想や憧憬を忍び込ませられない。
ヴォーカロイドがどんなに上手に歌っても、人は音楽ではなく、そのヴォーカロイドの性能にしか感動しない。


さらにもうひとつ。では、ヴォーカロイドが更に進化し、パッと見、人間にしか見えない、というか誰がどう見ても人間な、というかもう人間そのものでしかないアンドロイドになったら・・・
それはもう人間って何かね。っていうウィトゲンシュタインな問いの世界になるので、哲学者が考えればいいことだと思うよ。



※註1 って、余談だが、最近、「ピカソの何がすごいか全然わからんちん」と書いてた子がいたね。それは単純に、感受性が乏しいだけだねかわいそうにとしか思わないし、ココがスゴイと説明することではないと思う。ピカソのすごさはわからなくても生きていける。逆に電車の窓を流れる何気ない景色にまで美を見出しちゃうような子の方が生きにくそうだもの。
http://chaosch.blog106.fc2.com/blog-entry-168.html


※註2 それ故「初音ミクPerfumeを同列で語った人への恨みも含めて書かれて」いるという「初音ミクの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい」というエントリーは、「Perfumeの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい」でも成り立ちうるという、どうしようもない矛盾を抱え込んでいるのだが。
http://d.hatena.ne.jp/araignet/20071020/1192811893

レコード会社は本当になくなるか? ―マドンナやレディオヘッドの件


今日のお題「そして壁は崩れはじめた―マドンナ、レコード業界を捨てる」


マドンナがレコード業界を捨てた、と話題になっている。
ワーナーとの契約を更新しないことに決めたそうだ。
ちょっと前には、ナイン・インチ・ネイルズもレーベルを離れ、作品を直接一般に公開することにしたと話題になった。
プリンスは、新作を新聞のオマケにして配布し、レディオヘッドも新作はウェブサイトで公開し、パッケージも直接ユーザーに販売している。


一見いかにも「レコード業界の危機」的な話に見えがちだが、実はそれほど大した話ではない


元々レコード会社の仕事とは中間業務だ
アーティストの作った音楽を、製造し、宣伝し、卸す。
代理店、あるいは卸し問屋的なそんな感じ。
そして代理店や問屋を通せば、当然、マージンがひかれる
ナイン・インチ・ネイルズレディオヘッドが作品を直販するのは、つまりマージンをなくし、利益の総取りをするためだ。


ただし、もちろん、レコード会社が取るマージン、すなわちアーティストが作った音楽を売ってレコード会社が得る利益は、理不尽な搾取ではない。
それは、製造や宣伝、流通などにまつわる様々なコストやリスクへの対価だ。


ナイン・インチ・ネイルズレディオヘッドが直販できるのは、つまりマージンを支払って製造や宣伝や流通をしてもらう必要がないからだ
なぜなら彼らはすべて自分で出来るから
宣伝をわざわざレコード会社してもらう必要はない。彼らビッグネームは大して積極的に情報を発信しなくても、世界中から勝手に何十万何百万もの人々がサイトを訪れてくれる
製造リスクを負うだけの資金も十分ある。というより、レディオヘッドはパッケージ販売を受注生産にすることによって製造リスクすらなくした。ダウンロードとパッケージの受注生産で在庫リスクも負わず、流通コストも最小限に抑えられる
通常の小売店では手に入りづらくなり、レコード会社を通してリリースするよりもセールスは減るかもしれない。
が、マージンをとられない分、結果的にアーティストの取り分は大きくなる


もちろん、どんなアーティストでもそれが出来るわけではない。
既に十分な、そしてコアなファン(メディアからの情報量によって行動を左右される浮動層ではなく)からの確固たる支持があり、資金が潤沢にあることが条件だ。
ナイン・インチ・ネイルズレディオヘッドだからこそ、出来ることだ。


ちなみに、程度や形態の違いはあれ、同じような発想はこれまでもたくさんあった。
ビートルズは自分達のレコード会社アップル・レコードを作ったし、日本でもミュージシャンたちがフォーライフを作ったりした。
ジャニーズ事務所が、ジャニーズ・エンターテイメントというレコード会社を作ったりというのも同じだろう。


プリンスの場合も同様だ。
無償配布といえば聞こえはいいが、要は新聞社に作品を全部買い取らせたわけだ。
無償配布であるから、やはり在庫リスクはない。宣伝の必要もない。
レコード店で、財布の紐のかたい消費者を一生懸命振り向かせようと努力するより、どれほど効率的で簡単か。
しかしそれもプリンスの作品が新聞の販促物として十分に価値があるからこそ、出来ることだ。


マドンナの場合も、プリンスのケースと近いが、より壮大だ。
ナイン・インチ・ネイルズしろ、レディオヘッドにしろ、プリンスにしろ、いかに自分達の作品から最大限の利益を得るか、という発想をしているのに対し、マドンナは、パッケージだけでなく、ライヴやグッズ、そしてマドンナと言う記号を含め、トータルで『マドンナ』というアイコンを売った
ナイン・インチ・ネイルズレディオヘッドもプリンスも、あくまで音楽界のスターであり、そこまでの商品価値はないとも言える。
マドンナだから出来ることだ。


ちなみに、マドンナ的な発想も別に珍しいことではない。
ディズニーをはじめとするキャラクター・ビジネスや、様々なブランド、芸能事務所が日常的にやっていることだ。


まとめれば、結局、人気者のタレントが事務所を独立しました。という昔からよくある話
たまに前の事務所との軋轢で「ほされる」なんてこともあるけれど、いまはウェブで音楽の直販や宣伝が出来る時代。業界にソッポ向かれようがやっていける。
しかし、そこまでの人気と財力のあるアーティストは本当に極々一部。世界でも数えられるほどしかいない。
結局は大多数のアーティストがレコード会社に製造や宣伝、流通を担ってもらう必要がある
もちろん大きな利益の見込めるビッグネームが離れるのは経営的に痛いだろう。レコード会社はたしかに大変だ。でも全部なくなることはない。より小さく、より細く、だが残る。


一見目立つ、だが極めてレアなケースだけを取り上げて全体を論じるは、当然だが危険だ。
まあ、「音楽業界のモデルの崩壊」なんていうわかりやすくセンセーショナルな話はどんな場合も眉唾ですね。という見本です。

「CD売れない」「音楽は斜陽だ」の次にそろそろ言うべきこと。


音楽業界は斜陽産業だ。もう10年も前から傾き始めてる。
今さら鬼の首をとったように叫ぶ話じゃない。


いまやレコード会社に正社員を雇う余裕なんてない。
正社員を募集しているなんて、まれだ。
大抵が契約社員何年も前からそうだ。
まったく潰れる気配のなさそうなメジャーなレコ社、いくつある?


レコ屋の店員の給料がどれくらいか、わかるだろうか?
彼らはそれでどれだけ働かされてるか。
まったく悲惨な奴隷的な労働環境。
なのに、それだけ働いても、多くのレコ屋店員がバイトを掛け持ちしなくちゃ食っていけない。


音楽だけじゃない。
出版業界だって一緒だ。
一部の大手版元をのぞけば、編集者やライターなんてみんな奴隷だ。
編プロで雑魚寝してる若者達も、あと数年で使い捨てられる。


出版だけじゃない。
ゲーム業界やアニメ業界も一緒。
業界への憧憬を餌に、若者をどんどん使い潰していっているんだ。
貴重な20代を食いつぶして疲れ果てた人々が次々に去っていく。
まるで大昔の炭鉱労働者たちを見てるようだ。


流通小売業界はずっと斜陽だ。
音楽、雑誌、書籍、ゲーム、新聞、家電、クルマ。モノが売れないから。
当然の話だ。
購買層の人口が減っている。一方で消費の選択肢を増えている。
財布の中身は変わらない、もしくは減っているのに、商品はどんどん目の前に積まれていく。
音楽で言えば、1年間に日本でリリースされるCDのタイトル数は、アメリカのそれよりも多い、と言われている。
縮小しつつあるマーケットに供給過多。
モノが売れないのも当然だ。CDも当然売れない。


音楽に話を戻そう。
ダウンロードを違法化すれば、それでCDが売れるようになると考えるのは、当たり前だが間違いだ。
ナップスターを閉じさせ、mxを閉じさせ、winnyを取り締まったって、CDの売り上げはかわらない。
なぜなら、そこでファイルを落としているのは、CDを買ってくれる客ではないからだ。
「買わない。でも落ちてるなら拾う」
そんなライトユーザーだ。
winnyも音楽にとってもはや脅威ではない。
たとえば、バーチャル・シンガーが脅威でないのと同じように。
ソフトに歌わせた歌で満足できる層が、音楽業界の客であるはずがない。
無論、粗製乱造漂白ポップスでそんなライトユーザーを取り込み、大きく成長したのが90年代の音楽産業だった。
メジャーレコード会社にとって、かつてのお得意様がいまの仮想敵だ。
皮肉だが、大して笑えない。


CCCDや輸入盤規制も、そんなライトユーザーが手軽に使う蛇口を規制しようとした試みだった。
だが、その意図と反して、ヘビーユーザーから激烈な反発を食らうことになった。
かつてのお客さんを振り向かせようとして、普遍的なコア層のお客さんを怒らせた。その結果は周知のとおり。
蛇口を破壊したからって、水道水に大金は払わない。
そして、今度は、蛇口をひねる行為自体を違法化しようとしているだけだ。


「音楽業界は斜陽産業」だ。
そんなことみんな知ってる。ずっと前から。
そして、だから、多少でも危機感のある音楽業界の人間はみんな、あがいている。
コストを切り詰め、怒り、嘆き、CDが売れないのを何かのせいにし、間違った敵を見つけ、誤った施策を打つ。
彼らが見ている海図は10年も前のものだ。
宣伝と言えば、相変わらず顔の見えないマスに向けて闇雲に乱射している。彼らの客はもうそこにいないのに。
いや、本当はそんなこと百も承知かもしれない。でも、とりあえず何かやらなければいけないのだ。
だって会社が潰れそうなのだから。


そろそろ新しい海図を作ろう。
もうここらで現実を認めるべきだろう。
昨日までの夢は忘れよう。
「CDが売れない」と嘆くA&Rは、大抵、その商品の売り上げの期待値が間違っているのだ。
予想が外れるのなら、間違えているの予想の方だ。現実の方ではない。
「こんなにいい商品だから売れる」「これだけ宣伝したのだから売れる」と信じる前に、それが本当に正しいのか検証すべきだ。
そして、その上で、その商品の正しい価値とそれに見合ったコストをシビアに客観的に算出する。
ビジネスとして音楽に関わる以上、ビジネスとして成り立つ最低限のプランを立てる。
それが出来ないのなら、あくまで休日の趣味にするしかない。


愛だとか夢だとか、そんなもので勝負できるほど、甘い状況ではない。
音楽への愛は、よい商品を粘り強く作り続ける情熱の源泉とすればよい。
もう一度。「音楽業界は斜陽産業」だ。
傾いた陽は容易には昇らない。
だが、その赤い夕陽が美しく希望に溢れて見えることもある。
昨日を振り返るのではなく、そこに明日を見るのであれば。

ポップスの劣化って何かね?

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0709/13/news050.html
ネタ元は↑の「低音質のiPodやMP3で聞かれることを前提に作られている現代のポップスは劣化している」という親父エンジニアたちの与太話。
この手の話はいい加減ウンザリなのだけど。


そもそも、ポップスの劣化って何かね? 
というわけで、劣化というからには、当然、ポップスの質の基準となるべき何かがあるはずだ。
そこから後退してこそ「劣化」ということになる。
では、何がポップスの質を計る基準になるのだろう?
何が優れたポップスであり、何が劣ったポップスなのだろう?


例えば、みんな大好きビートルズ
はたしてビートルズは優れたポップス? もちろん、そうなのかもしれない。
だが彼らの音楽も、60年代当時は「騒音」と評された。あんなものは音楽ではない、と。
下品だ猥褻だとこき下ろされたプレスリーもまた然り。
そのビートルズプレスリーが参照した黒人音楽、ブルーズやロックンロールやジャズがどのような捉えられ方をしていたか、当時の社会状況を思えば想像がつく。50年代のビート作家が描くジャズは、そのまま60年代のロック、70年代のパンクの姿と重なる。
何が優れたポップスか―― 自明だが、そのスタンダードは時代によって、変遷してきた。


音質の面からも考えてみる。
CDが登場した時も、その音質は批判に晒された。
アナログ・レコードの音質の礼賛者はいまも根強く残る。
だがビートルズにしろプレスリーにしろ、その音楽はレコードの形のみで聞かれたわけじゃない。
当時は、まだまだラジオの時代だった。ラジオから流れるビートルズプレスリーに、ティーンは熱狂したのだ。
ステレオですらないラジオの音質は、やはりビートルズプレスリーの本来の音楽の質を「劣化」させていたのだろうか?


これも自明のことだが、ポップスの優劣と音質の優劣とは関係がない。
海外では、MP3より低音質のMyspaceから、リリー・アレンやクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーといった新しいスターが生まれている。
ポップスの優劣があるとすれば、それは時代によって変遷する価値基準によって決められる。
「MP3の音質が悪いのでポップスが劣化している」などというのは、たちの悪い難癖か、あるいは個人的な郷愁の吐露でしかない。
リンク先の文中、ピンク・フロイドジョニ・ミッチェルサンタナフリートウッド・マックなどの名前が並んでいるのも、決して偶然ではない。
つまり、アナログ・レコードと70年代ポップスを基準におき、そこから差異を「劣化」と評しているだけだ。


実際のところ、プロトゥールスをはじめとするレコーディング環境の向上とさまざまな楽曲のデータとノウハウの蓄積により、現在は誰が作ってもある程度の質――それこそ70年代的なポップスの価値基準でいう音と楽曲の質――のものは出来るようになった。
狙って作ろうとしない限り、かつての一部歌謡曲のような珍妙でユニークで面妖な楽曲は生まれづらい。
70年代ポップスを基準とすれば、現代のポップスは劣化するどころか、むしろウェルメイド化した。
では、なぜ、「劣化」と評されるのか?


現在のポップスの原型は、40年近くも昔にほぼ完成している。
英米で50年代60年代に黎明期を迎えたポップスは、SSWやディスコやパンクやハードロックなど様々な形をとりつつ、70年代に全盛を迎える。
だから現代の人々は70年代の音楽をいまだに楽しむ。テレビCMを見れば使われるのは懐かしの曲ばかり。
一方で、新曲だといって聴かされるポップスも、やはりいつか聴いたような曲ばかり。
80年代日本のバンドブームの背景にはパンク・リバイバルが、90年代の渋谷系ブームの背景にはレアグルーヴがあった。
現代のポップスは、70年代のポップス(洋楽とその影響下の邦楽)を価値基準として、生み出されている。
コピーの氾濫に、オリジナルを聴いた世代が「劣化」と評したくなるのもわからなくはない。


そう、いまだに70年代的な価値基準が跋扈している。それは熟成し、良くも悪くも、ウェルメイド化した。
しかし、一方で、パラダイムシフトを促すような新しい価値基準は生まれていない。
いや、生まれてはいるのだけど、ポップスとして広がるまでのパワーを獲得できていない、という言うべきか。
海外ではメインストリームのヒップホップですら、この国では、ポップス化していない。
世代を大きく輪切りにし、そこで全員で共有できるような規模での新しい価値基準は生まれていない。
価値基準は細分化し、多様化した。
つまり、その優劣を論じる前に、「ポップス」という概念の成立自体が怪しくなってきているのが現状だ。
そう考えると、CDが売れないのもよく分かる。


問題はポップスの劣化でも音質の劣化でもない。
嘆くのならば、それはポップス自体の喪失を、だろう。
あくまで、もし嘆きたいのであれば、だが。
個人的には、そんな必要性は全く感じない。
いまや、それぞれがそれぞれに自らが優れたと思う音楽を楽しめる時代だ。
ポップスとは評されなくとも、探せば、素晴らしい音楽、面白い音楽はそこら中にある。
件のMyspaceなんか、まさに探索しがいがあるでしょ。
もちろん探したい者だけが探せばいい。ポップスではないのだから、万人が聴く必要もない。


ポップスなどという幻想によって、同時代性への共感を強いられることなく、それぞれの「趣味」を楽しむ時代。
たとえ、ひとりでもね。


…さみしい?


というところで、先週の話へ繋がるわけ。


http://d.hatena.ne.jp/rmxtori/20070910

先月末、祖母が亡くなったので1日だけ実家へ帰った


泣ける話ではない。むしろ、人によっては不快になるかもしれない。


先月末、祖母が亡くなったので1日だけ実家へ帰った。


祖母は90歳。
6、7年前から痴呆をわずらい、数年前からは病院で寝たきり。娘である母のこともわからなくなっていた。
ここ2年くらい何度も「もうあぶないです」と主治医から言われ続けていて、実際に亡くなったと聞いたときも、僕は「ああ、そうか」と淡々と受け止めた。
それは実の娘である母にとっても同じだったようだ。
仕事を終え、喪服だけ持って新幹線で実家へ向かったのだが、母も大変だろうと「夕飯は食べて行く」と連絡すると、「あんたの分も用意してあるから大丈夫」と言われた。
実際、実家に着くと普通に夕飯が出てきた。ビールと一緒に。
母にとっては、もう何年も前に(多分、自分のことを祖母がわからなくなった頃に)ケリがついていたのだと思う。疲れたとは言うが、泣いたりはしない。母も淡々としていた。むしろほっとしていたのかもしれない。


実家があるのは東海地方で、母の出身は東北。当然、祖母も東北の人。
10年ほど前からひとり娘の母が祖母を引き取り、実家でくらしていた。そして祖母はそのまま近くの介護病院に入院。
実家は典型的な核家族で、まわりには親戚縁者もいない。
ので、本葬は週末に東北の祖父の墓のある寺で行うことになった。
お経は既に斎場であげてもらったという。通夜らしい通夜もしない。遺体も斎場の霊安室にある。
その日も何もすることはなかった。


翌日、斎場に行き、霊安室で祖母と対面した。
霊安室と言っても、倉庫とカプセルホテルをかけあわせたような場所だ。
そこに簡易の祭壇を作り、棺を置く。
二人の祖父が死んだのは、どちらも僕が小学校の頃だ。それ以降に近しい人間が死んだことはない。大人になってから人の死に接するのは初めてだった。
棺の窓を開け、遺体を見る。
不謹慎な感想だが、僕は「魂」とはよく言ったものだと思った。たしかに魂が抜けている。これは、ばあちゃんではない。ばあちゃんの魂の抜けた蝋人形のようなものだと。


お経をあげる坊さんもすぐにやってきた。
残された者に受け止める準備の出来ていない不慮の死であれば違ったのだろうが、僕らの場合、何年も前から覚悟は出来ていた。特にここ2年くらいの祖母はもうほとんど死んだようなもので、いまさら泣き叫ぶこともない。淡々とことは運ぶ。
斎場の職員や坊さんにとっても死は日常だ。淡々と運ぶ。
みんながそうなのだから、作業はなおざりになる。とりあえず形式的に手順は踏むけれど。
坊さんは祖母の名前を覚えていないようで、カンペを見ながらお経をあげた。彼が読経の前に一服していたタバコの灰皿は祭壇に上に置きっぱなしだった。線香より高くタバコの煙が上がる。坊さんはお経をあげながら、こっそりの灰皿を隠した。
読経が終わると、火葬場へ向かう霊柩車、といってもただのワゴン車に棺を移す。棺をストレッチャーから持ち上げたとき、ちょうど斎場職員の携帯が鳴った。着メロは手品のときにながれるあの曲だ。
車は火葬場に着き、棺が焼き場に置かれる。棺を前に神妙な顔をした中年の斎場職員が「お別れの方はよろしかったでしょうか」と言った。
すべてがグダグダだ。


準備の出来ていない遺族にとっては、ひとつひとつの儀式が、心の中を整理し、死を受け入れるための手順として機能するのだろう。
だがそうではない場合、弔いの身振りはただの茶番になる。形式的で無意味な儀式。
そして、そうやって余計なものが削げ落ちると、一連の作業の背骨の部分、本質が見えてくる。
つまり「人が死ぬ。役所に届け、書類をもらう。死体を焼く。骨と一緒に書類を回す。埋葬する」ということ。
なんのために?
もちろん、公衆衛生のために。
弔祭という表面をはぐと、実に無感動なシステムが浮かびかがる。
個々の死というものは相対化され、死体としてひとくくりにされ、システマティックに処理される。


1時間半ほど火葬場の待合室で待っていると、職員に呼ばれた。
遺体はきれいに焼かれて、白い骨になっていた。職員に促され、骨を拾い、骨壷に入れる。
この骨に何か意味があるのだろうか? と考える。
これはばあちゃんではない。あの蝋人形と同じように。
この骨に意味があるとすれば、それは防疫上まったく無害になった、ということだ。
骨をつまみながらなんとなく僕は思う。
「人の生き死にっていうのは、実はそんなに大したことではないのだな」と。
それは命が重いとか軽いとか価値があるとかないとかそういう話ではない。
というより、命が重かろうが軽かろうが人は死ぬ。誰でも死ぬ。毎日死ぬ。死は決して特別ではない。


東京に戻って友人にその話をしたら、「これだから都会者は」と言われた。
僕の実家があるその地方都市を都会と呼べるかどうかはわからないが、すくなくともその友人の生まれ育った環境よりは都会だろう。友人が育ったのは、いわゆるド田舎だ。友人の家は四方を畑と高速道路に囲まれていて、隣の家まで歩いて15分はかかる。
そこでは、よく人が死ぬという。無論、実際に死亡率が高いのかどうかはわからない。単に人間関係が濃密で「死」の情報に接する機会が多かっただけなのかもしれない。ただ実際に老人が多く、当然彼らはよく死んだという。貧しいからか閉塞してるからか、自殺も多いらしい。子供も平気で死ぬそうだ。事故や病気でも死ぬ子もいるし、虐待なんだかよくわからない理由で死ぬ子もいたという。毎年、近所で2、3人死んだ、人が死ぬのなんて珍しくもない、当たり前だった、と。
僕は妙に納得した。やはり普通に死んでいるのだ。大勢。たくさん。あちこちで。毎日。今この瞬間も。
これまで恐れ忌避し遠ざけ隠してきた「死」というものを、はじめて実感できたような気がした。
台所の隅でぷちっと潰したありんこの「死」と、僕らの「死」が重なったような、そんなふうに感じた。


その週末は、東北の祖父の墓がある寺で本葬があった。
僕のとっては全く面識のない親戚が大勢集まり、立派な葬式をあげてあげた。
葬式のあと、役所からもらった埋葬許可証を寺の事務所に渡し、ばあちゃんの骨をじいちゃんと同じ墓に埋葬した。
墓には石職人がすでに待っていて、僕らが着くと墓石をどかして、中に骨壷を入れた。
墓石を再び閉める前に、石職人は「念のため、ご確認下さい」と言った。
喪主ではなかったが、なんとなく、僕が覗き込んだ。


暗い墓の下には、想像していたのよりもはるかに多くの骨壷がひしめいていた。

やっぱりさみしいよね、みんな、っていう。


前の続きと言うか。雑感。


「ベストセラーしか売れない」って嘆いても、いや売れるからベストセラーなんだよとしか答えようがないわけで。
そもそも「ベストセラーしか売れない」と嘆きつつ、実際に問題にしているのは「なんでそんなくだらないものだけが売れて俺が大好きな素晴らしいアレは売れないんだ」ということじゃないかと。
その気持ちはわからなくもないが、そんなの昔からずっと同じでしょ。別に○○○○が史上初の「こんなにくだらないのにヒットしちゃった作品」ってわけでもないだろうに。○○○○は映画でも音楽でも本でも何でも可。


「ベストセラーが売れる」理由のひとつとして、「多くの人が買った」=「多くの人が楽しんだ」=「自分も楽しめる可能性が高い」から安心してお金を払いやすくなる。というのがある。
ブログやSNSのクチコミなんかを宣伝に利用するのも似たようなもの。
一方で、従来のプロモーションの方法論は力を失っている。特に音楽の世界では。月9のタイアップでミリオン、なんて過去の話。しないよりはマシだが、一昔前に比べるとそのパワーは凋落著しい。
逆にいまだに強いのが、店頭プロモーション。特に手書きポップの威力。一部書店やヴィレヴァンでお馴染みだが、レコ屋でも手書きポップの宣伝力は高い。
これもブログやSNSのクチコミと同じ。
消費者は、店員はレコード会社の人間ではないのでより中立的で公平だと考え、その言葉を信じるわけです。まあ、レコ屋の店員と言えば、音楽好きのバイトにいちゃん。ある意味ではその見方は正しい。のだけど、でも店頭にも多額の広告費販促費が支払われているし、協賛金(まあ、わかりやすくいうと場所代ですね)という形でもお金は落ちている。
音楽雑誌だともうその辺あからさま過ぎて見抜かれちゃうんだけど、レコ屋のポップにはまだ多少のピュアさが残っているんだよね。雑誌よりは。だから人は信じる。手書きだし。


話を戻すと、「ベストセラーしか売れない」のは、広告なんてうそ臭いよなどうせ金だろ金と日本国民のリテラシーが上がったから。
ではなく、たぶん、財布に余裕がない。あるいは他にも欲しい物がたくさんある。ので、よりシビアに吟味したい。のだけど、何を信じればいいんでしょ。でもこれはみんな楽しんでるっぽいね、「みんな」にはきっと俺も含まれるよね。ってことで、とりあえずベストセラーを買うと。


もうひとつ「ベストセラーしか売れない」理由。
そもそも、人の消費行動を左右する要素として、その商品自体の効用とは別に、「アイデンティティ」と「コミュニケーション」というのがあるような気がする。
アイデンティティ」っていうのは、つまり「あたしって椎名林檎とか聞いちゃう人なんです」ってやつで、「コミュニケーション」というのは「椎名林檎っていいよねー私も好き好き」ってやつ。
ちなみにV系ゴスロリの女の子らなんかを見てるとその辺よく分かる。たぶん。知らないけど。
でもって、現在はもはや自分探しの時代でもなかろうってわけで、「コミュニケーション」の方が影響力が強い。
ベストセラーが売れるのは、その作品を通じてより多くの人とコミュニケーションをとりうる可能性があるからでもある。だってさみしいじゃん、みんな、っていう。


で、最初に戻る。
「なんでそんなくだらないものだけが売れて俺が大好きな素晴らしいアレは売れないんだ」っていうのは、要は俺ってすごいでしょっていうね。
だから大衆が「俺が大好きな素晴らしいアレ」を興味を持ち始めると、反発し始めるんだな。「アイデンティティ」に絡むだけに。
ただそんな目新しくもないスノッブな嘆きが、いま、以前にも増して切なく響くとしたら、そんな「俺」がどんどん少なくなっているからかなー。
つまり「アイデンティティ」をモチベーションに消費行動に走る人間が少なくなった、と。
濃密な集団の中で自分を探してた時代とは異なり、最初からひとりぼっちなので。やっぱりさみしいよね、みんな、っていう。

世の中の人間は売れているものしか買わないわけじゃない


http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070911/ureru


「インディーズ系のCD」だけが「危機的状況」にあるわけではない。
そもそも発端は音楽産業そのものの不振だ。
メジャー、インディー問わず、CDは売れない。
データはレコ協のサイトにも公開されてる。CDは売れない。


ので、小売店の売り上げは減少し、経営は悪化。
TOWER RECORDSは資本にドコモを入れ、HMV大和証券系が買った。


というわけで、ご他聞に漏れず、経営の建て直しにあたってリストラと収益構造の改善が行われると。
そして、ロスを少なくして効率的に売るために、各タイトルの入荷数を圧縮するようになったわけです。


もともと大きな利益が望めない、だが良質な作品(多くがインディー)も、何年か前まではメジャー作品のミリオンヒットのおかげで店頭に並んでいた。
が、現在は、CDそのものがメジャー作品も含めて売れないので、もっと売れない商品を在庫に置く余裕がなくなった。
今のHMVなんて、品揃え、TSUTAYA新星堂と変わらないもん。


逆に言うと、インディーズでも売れるものはちゃんと店に並ぶのです。エルレだってインディーだし。
さらに逆に言うと、メジャーだって売れなければ並ばない。メジャーから出てる洋楽なんて、売れないもの多いし。
ついでにもっとさらにいうと、そういう動きは今に始まったわけじゃなく、WAVEやヴァージンが衰退したときも同じだったし。


つまり、消費者が売れているものしか買わない、というのは、ここからは導き出せない。
「インディーズ系のCD」だけが売れなくなっているわけではないので。
ここから導き出せるとしたら、「CDってやっぱり売れないね」「レコ屋きびしいね」「業界きついっすね」ってことくらい。

少なくてもCDに関しては、世の中の人間は売れているものしか買わないわけじゃない。
というか、世の中の人間はそもそも買わないんだ。CDを。


それは、まあ、雑誌売れないね。車売れないね、というのと、あんまり変わらない。
多様化、情報過多、供給過多、そもそも購買層の人口減ってるし当たり前じゃん。という変わりばえのしない話にしかならないわけで。



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