音楽の「質」の話とか


個人的に関心がなく、また本題ともあまり関係がないと思ったので(ちょっとズルく)避けた話題だったけども、典型的な誤謬の元にもなりがちなので一度整理しておこうと思う。
音楽の「質」の話だ。


音楽の「質」について話す時は、常に混乱が付きまとう。
なぜなら、質の高い低いは受け手それぞれの評価であり、それぞれの主観の問題だからだ。
誰かにとってゴミでも誰かにとっては傑作、ということは常にありうる。
「質の高い音楽」と聞いて頭に浮かべるものは人それぞれ違う。そして、そのどれが正しいかは客観的には決められない。


一方で、志の高い低いは作り手の意識の問題だ。
どこまで独善的に自己表現を貫くか、自分のアーティスト性を優先するか、ユーザーのニーズにどこまで敏感、あるいは鈍感でいられるか、という話。
もちろん、志の高くて売れる作品もありうる。


という前提の上で、この間の文章は、志の低い、つまり一般ユーザーのニーズを可能な限り取り込んだはずの作品が売れなくなったのはなんで? というか一般ユーザーのニーズはそもそも音楽自体にはないんじゃないの? という話だった。
そして、もうひとつのテーマが、そんなふうに「売れる」作品がなくなってメジャーや小売店の体力が落ちることにより、それぞれが質が高いと思う音楽をそれぞれのファンに届けているインディーも含めた、音楽産業全体がダメージを受ける。という業界構造の話だった。


CDが売れない「本当の理由」
http://blog.goo.ne.jp/matsuoka_miki/e/9da0d2f090b41a14b03ebe7a4108574e


ここで勘ぐられているような、自分にとって質の高い音楽が売れないのはなんで?なんて話ではない。誤読だ。
ただこの記事で指摘されているような認識が、(自戒も込めつつ)業界内でわりとありがちなのも事実。
こんな状況でも「質の高い音楽を作れば」とか「とにかくいい音楽を」とか「No Music No Life」とか、会議で本気で口にするスタッフもいる。
そういった耳に心地よい言葉は思考停止以外の何ものでもない。
…が、それでもだ。
アート/表現に関わる以上、その心情は非常に理解出来る、というもまたホンネである。


また、実際にいくつかのリアクションでも見られたが、ユーザーが「これからは(私にとって)いい作品を届けてくれ」と主張をするのはまったくもって正当なことだろう。例えば ここ(http://peer2peer.blog79.fc2.com/blog-entry-909.html)でされている「J-POPシーンなどというわけのわからない」ものではなく「私の言うところの質の高い音楽」をもっと!という主張も、たとえその論旨が僕がしたかった/している議論とは全く次元の異なるものだとしても、ユーザーの態度としては100%正しい。
そして彼のように、様々な位相で「私の言うところの質の高い音楽」を望むユーザーとアーティストをつなげ、それぞれにとって「いい音楽」を届ける機能をしていたのが、個人レベルのインディーからメジャーまであるレーベル、そしてメディアや流通、小売も含めた音楽業界だ。その部分がスポッと抜けちゃうかもね、というのが業界構造の話であり、下記で僕よりうまくまとめられている。


終わりの始まりのあとに(2)
http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-4.html


ちなみに、ダウンサイジングすべきというのは正しいし、その流れは以前から起きている。
実際、個人商店のような規模でレーベルをまわしているDIYな人達がインディーにいっぱい出てきた。が、ここ数年、まずそういった本当の意味でのインディペンデントなレーベルからどんどん閉鎖/撤退していった。
インディーであればあるほどビジネスとしては成り立たなくなっている。ブクマで「1000枚レベルのビジネスモデルを」とあったが、それがわりと容易に成り立っていたのが10年前の話。いまは難しい。
ただし、レーベルの副業化兼業化がすすめば、結果的にはインディー・シーンの安定化に寄与するかも、とも思っている。

「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年


忘年会で何キロ太っただろう。焼酎のビンはしばらく見たくない。
とにかくいくつもの忘年会でいろんな音楽業界の人間と話をしてきた。
流通、メジャー、インディー、マネージメント、小売、媒体など、それぞれポジションは違うが、みんな総じて「あきらめムード」である。
自嘲自虐なギャグもすべりぎみで、舐めあうには深すぎる傷を負っている。


2007年がどんな年だったか。音楽業界にとってはいよいよ冬の時代の本格到来である。
一昨年より去年の方が悪く、去年より今年の方が明らかに悪い。
冬の時代の到来、なんて書くとそのうち春が来そうだが、実際はそんなことはないだろう。
たまたま日の陰った不況というよりは、もっと構造的な問題、本質的な問題なような気がする。
だから本当は「死期を悟った」とでも書いたほうがいいかもしれない。
あるいは「終わりの始まり」とでも。


忘年会も一段落し、時間もある。ちょうどいい機会だ。(感傷的に、そして大げさに言えば)自分の青春を捧げた大好きな音楽を取り巻く世界が今どうなっているか、僕の目から見た現状を書きとめておくのも悪くない。



CDの売れない理由として、音楽の質の低下をあげるむきがあるが、それは根本的に間違っている。
音楽に限らずコンテンツ産業に関わった人間なら共感してくれるだろうが、売れる売れないと質の良し悪しは今も昔もあまり関係ない。
当然だが、2007年にも質の高い音楽は無数にある。もちろん質の高くない音楽も無数にある。
ちょうど10年位前、CDが最も売れていた時代にも質の高い音楽と質の高くない音楽がそれぞれ無数にあった。そしてガシガシ売れていたのはむしろ質の高くない音楽だった。
いや、質の高くない、と断じるのは語弊があるかもしれない。「そもそも音楽における質とは何かね?」という問題もある。ので志の高い低いで言い表してもいい。
かつてはあまり志の高くない音楽が売れていた。今は売れない。


では、なぜ、売れなくなったか?
もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。
彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。
10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。
当時、テレビはまだエンターテイメントの中心にそびえ立っていて、その中でもドラマは若者であれば「誰もが見るもの」だった。
学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。
だからこそ、「みんなが聞くからみんなが聞く」というインフレーションを起こし、ミリオン・ヒットが量産されていった。それが10年前だ。


だが状況は変わった。
テレビのエンタメ王者としての権勢には陰りが見え、娯楽はどんどん多様化していく。特に台頭したの新しいコミュニケーション・ツール、携帯だ。
カラオケは相変わらずコミュニケーションの場として堅調だが、カラオケで歌うためだけならわざわざCDは買わない。レンタルや友達に借りる、あるいは違法ダウンロードしたものをCDRにコピーできればそれで十分だ。
若者はそれよりも携帯電話にお金を使う。パケ死寸前なのに3000円もするCDなんて買えるわけがない。


音楽ビジネスはもともと純粋な音楽ファンを相手にした商売ではなかった。
それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介にしたコミュニケーションに興味ある一般層がターゲットだった。
カラオケはいまだに人気があるが、コピーで事足りるようになった以上、CDは売れない。
ロックフェスのチケットはいつもソールド。友達や恋人と一緒に夏の思い出を作る。だがそこに出演していたアーティストのCDは売れない。


CDを聞いてもモテない。CDを聞いても友達は出来ない。CDを聞いても関係性は作れない。だから売れない。
「みんなが聞かないからみんなが聞かない」というスパイラルにどんどん落ち込んでいく。



同じような状況はコンテンツ産業はどこも共通なのかもしれない。
例えばゲーム業界。


「いいソフトさえあれば勝てる」という常識が変わりはじめたhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071225/143944/


Wiiのようにみんなで楽しめるハードがヒット。ネットワークを使ったゲームや脳トレのようにわかりやすくコミュニケーションのネタになるものも売れる。だが、ひとりでも楽しめるマリオやゼルダは伸び悩んでいるらしい。


『モテたい理由』関係性がすべての時代
http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0801/index04.html


同じく不況下の出版業界だが、ファッション誌だけは違う。
だが「関係性がすべて」なのは昔から変わっていないような気がする。ただ携帯電話やPCなどコミュニケーションツールの進歩でより顕在化しただけだろう。
単純に、すべてである関係性を築くために(モテるために)必要なものが変化したのである。


ファッション誌はモードをシフトすることで全時代に対応する。
ゲーム業界はWiiやDSを生み出して、ゲーム・ファンではない一般層を取り込んだ。


一方でCDを聴くという行為はどこまで行ってもごくごく個人的なものだ。それ自体は変えようがない。
誰かと一緒にCDを聴く、というシーンがどれほど日常的にありうるか、想像してみて欲しい。
車の中でさえ、いまやナビのHDDかiPodだ。借りたCDからリッピングするか、どうにかしてファイルをコピーできれば、わざわざCDを買う必要はない。
CDを聴くということが個人的な行為であり、そしてそれが誰かと関係性を築くのに寄与しない以上、CDは2010年になっても2015年になっても売れない。
CDだけじゃない。音楽配信だって状況は同じ。実際うまくいっていないし、これからもうまくいかないだろう。
あ、携帯の着うただったら、誰かと一緒に聞くっていうのもありうるかもしれない。でも、ほら、違法着うたが正規の配信を超えたというニュースが最近流れたばかりだ。結局、レーベルにもアーティストにもお金は分配されない。


やっぱり、そろそろ死期を悟る頃だろう。寿命なんだ、って。



音楽業界がなくなっても音楽さえ残ればいい、と思う人がいるかもしれない。
でも、それは違う。


スタバとアップルの提携が見せてくれるメディアビジネスの将来
http://satoshi.blogs.com/life/2007/12/post-5.html


この記事の中で<「CD/DVDの物流」という既得権をたてにアーティストから搾取する大手レーベルの中間マージンを排除し>という一文がある。
だが実際のところ、メジャー・レコード会社は決してアーティストから搾取していない。いや、正確に書くのならば、メジャー・レコード会社は決して大多数のアーティストから搾取していない。
ミスチルでも宇多田でもドリカムでも誰でもいいが、彼らのように売れているアーティストたちには、もっと利益が分配されてしかるべきかもしれない。浜崎ひとりがエイベックスの社員とその家族の生活を支えていた状況に比べると、彼女が手にしたものはあまりに小さい。彼女たちのようなビッグ・ネームは、その功績に比べると分け前が小さいという意味で、メジャー・レコード会社から搾取されているといえるかもしれない。
だが、そうではないアーティスト――レコード会社が抱えるアーティストの99%――は違う。彼らは決して搾取されていない。彼らのCDは、そのリリースに関わった社員の給与分も利益をあげていないこともある。商業的な結果だけを見れば、赤字なのだ。
そういった大多数のアーティストの作品は、ごく一部のビッグ・ネームが稼ぎ出した利益から作られている。赤字もその分け前から補填される。そうやって育成された新人の中からまた次のビッグ・ネームが生まれる、と信じるからこそである。
売れていないアーティストは当然大金を手に出来ない。だがそれは搾取とは違う。


2007年は海外のビッグ・ネームたちのレーベル離れが進んだ年でもある。レディオヘッド、マドンナ、ナイン・インチ・ネイルス、プリンス。彼らも搾取されていると感じていたのかもしれない。とにかく彼らビッグ・ネームは、レコード会社にマージンを抜かれることを拒否し、自立の道を選んだ。ビッグ・ネームだからこそ出来ることだ。


ビッグ・ネームのレーベル離れ。その結果、引き起こされるのは新人アーティスト達の制作環境の悪化だろう。レーベルは、確実に売れるものしかリリースできなくなる。海のものとも山のものともわからない新人にお金なんてかけられない。新しいものは世に出にくくなる。
CDが売れていた10年前はインディー・シーンも活況だった。ミリオンヒットの生み出す利益のおかげで、レコード店も「売れないけど志の高い音楽」を店頭に並べる余裕があった。メジャー・レコード会社も新人開発を積極的に行った。90年代、インディーからスターが生まれ、アイドル誌のカウンターでしかなかったロッキング・オン・ジャパンが急速にメインストリーム化していった。


音楽業界が死んで、真っ先に道連れにされるのが「売れないけど志の高い音楽」だ。
実際にまずインディー作品から順に店頭から消えていっている。



2008年にはいくつかのメジャー・レコード会社が静かにレーベルとしての活動をとめるだろう。たとえ、会社として潰れなくてもレーベルとしての機能は停止する。
インディー・レーベルはその比じゃない。バタバタと毎月のように倒れていく。
いくつかの着うた配信会社や音楽配信会社も静かに撤退していくもしれない。
音楽雑誌はこれまでもいくつも廃刊したけれど、さらにまた何誌か消えるだろう。
音楽専門放送局だって先行きは見えない。広告営業は相当厳しい状況のはずだ。
2007年は、厳しい状況のHMVが証券会社に買われ、シスコやマンハッタンが店舗を閉じた。2008年も専門店はいくつも潰れるだろう。それでもタワーには頑張ってもらわないと。タワーがHMVのようになったら、なんてことを本気で心配するときが来るとは思わなかった。でもタワーだって楽ではないのは知っている。若い店員たちがどれほど苦しんでいるのかも。


死期を悟った時、人間は何をするべきだろう?
それでも必死に解決策を探してあがくか? 奇跡を信じて祈るか?
でもどうしたって最期の時はやってくる。
幸か不幸か、実際に僕らが命を落とすわけではない。
音楽業界が死んで音楽が死んでも、僕らは死なない。
音楽にしか興味がなかった人間が、それぞれどうやって第二の人生を生きるかを考える。
音楽業界にとって、2008年はそんな年になるような気がする。






(追記 2008年1月1日)


補足。というかブクマへのリアクション。
まず、ポジショントークといわれるのは仕方ないと思う。業界の内部からの視点であることは間違いないわけで。
明確に「業界の中の人」として書いているので、その辺は割り引いてください。
けれども、「だから音楽業界を守ろうよ」とは全然思わないし、そんなことが出来るとも思っていない。
ただ一方で、自分たちの仕事への自負のようなものはもちろんある。やはり情熱を傾けてやってきた仕事だし、「レコード会社なんてなくても全然OKだよ」とは言えない。
あと国内に限っていえば、死守しなければいけないような既得権益なんていうのもないです。「権益だなんて…大層な…」と笑っちゃうようなショボイ状況です。


もうちょい先のビジネスモデルについては、現状では広告モデルが一番現実的に想像しやすいかなあ。
特に、新聞の付録として自分の新作を提供したプリンスのやり方は示唆的。もちろん、この新聞社は販促費を殿下に支払っている。


プリンスがUKでニューアルバムを無料配布!
http://notrax.jp/news/detail/0000003813.html


日本でもそのうちありうるかも。間に入るのは当然代理店さんでしょうね。
というわけで、レコード会社が代理店化する、あるいはレコード会社に代理店がとってかわるというのはありそう。
さすがにパッケージに広告を載せるのは、曲がりなりにも「アート」を名乗る以上、アーティストが嫌がりそうだけど。でも、裏ジャケがユニクロやリーバイスの広告になったCDが発売されてもそんなには驚かない。


あと、筆がすべり気味に「音楽業界は死ぬ」なんて書いちゃったけど、とはいってもレコード会社が全部なくなることはないと思う。寡占的に数社が残る。数は多くはないだろうけど、レコード会社という機能を必要とするユーザーやアーティストは一定数存在し続けるだろうし。
ただし、それで「業界」と呼べる体を成しているかどうかは疑問。業界としては死んだに等しいとも言えるかも。
まあ、元々日本の音楽業界は、家電メーカーが自社製品を売るために支えていたわけで。それ以外でも、お金を持っててワンマン経営な会社が、社長のオモチャのようにレコード会社を持ってる例はいくつもある。
パトロンに庇護されていた中世の音楽家のように、残るところは残るはず。




(さらに追記 2008年1月2日)


またリアクション。
後出しみたいで申し訳ないが、書いてるのはインディーの人間です。
ただし、メジャー/インディーの区別は、この話に関してはあまり関係ないかと。
メジャーもインディーも、レコード店というユーザーと直接対峙する媒体を共有しているし、マーケットも共有している。ので、元の文に書いたとおり、小売店がメジャー作品で大きな利益があげられないと、より売れないもの、つまり多くのインディー作品から入荷を抑制されていくわけで。
インディー界隈も「メジャーがどうなろうと知らんわ」と思っていたら、実際はそうもいかなかった、という。


実際、昔に比べたらメジャー/インディーは接近してきている。
メジャーの体力が落ちて新人開発を行なう余裕がなくなってきているので、その役目を以前にも増してインディーが担うようになってきており、交流もさかん。
インディーからメジャーへ、メジャーからインディーへという人的移動も全然珍しいことではない。
三大(誤記)四大メジャーが君臨する欧米に比べたら、日本は中小乱立型で、メジャーとインディーの違いは比較的小さい。


まったくの余談だけど、実は日本ではそもそも何をもってメジャー/インディーをわけるのか、というのが結構曖昧。
一応、「レコード協会に加盟しているか否か」とか「どの物流を使っているか」とかという目安はあるが、一般的にインディーと呼ばれている会社も、レコード協会に加盟していたり、メジャーと同じ物流会社を使っていたりする。


もう一点。
音楽に限らず、コンテンツを出来るだけ安く、もしくは無償で手に入れたいという欲求がユーザーの間に非常に強くある、ということは、それはもう日常的に感じてる。
その良し悪しには個人的にはあまり関心がなく、ただ「そういう状況なんだな」と認識しているというだけだけど。
ただし現状で単に値段を下げるというのはもうビジネス的に破綻していくだけなので、前述のプリンスのように広告モデルを構築するしかありえないんじゃないかと。でも、それはもうちょっと先の話でしょうね。


一方で面白いのが、コンテンツ自体ではなく、それを通じて誰かと関係性を築けるようなプラットフォームにはお金が落ちるということ。例えば、ニコニコ動画の有料会員のように。
元の文にも書いたけど、カラオケやロックフェスのようなプラットフォームにはまだお金が落ちている。フェスのチケットは出演者(コンテンツ)の発表前に売れちゃうわけです。






(もう一度追記 2008年1月3日)


同じ業界のライターさんからトラバをもらったのでリアクション。


終わりの始まりのあとに(1)
http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-3.html


筆が感傷的に走りすぎ、というのは反論の余地もございません。まあ、現場感ということで割り引いていただければ。
ただ「音楽」ではなく「ポップ・ミュージック」「ポピュラー・ミュージック」と書けば、もうちょいわかりやすくなったかな、と思っています。
もちろん、個々人の音楽へ関わりというのはなくならない。ニコニコでもマイスペでもジャズでも80年代歌謡でも洋楽でもそれぞれの中での「いや俺はこれ好きだけど」という盛り上がりはあるのだろうし(実際ブクマでもあったし)、「それぞれが曲を作りそれぞれが曲を聴き」というパーソナルとパーソナルの間でのコンテンツのやり取りは続くだろうし、その媒体になるのがネットだというのも確かですね。
その良し悪しはいろいろありすぎて一言では言い表せないけれど、仕事を別にすれば、個人的には好ましい流れだと思っています。ただ、トラバ元でも書いている通り、それではビジネスモデルとしては中々成り立たないのも確かで。
そして、それは単に儲からないということだけでなく、「ポップ」や「ポピュラー」という概念の崩壊も意味しているわけで。「物語の喪失」なんてレベルですらなく、単にお互いが聴いている曲をお互いが知らない、という状況がデフォになるわけです。ITMSamazonもマイスペもYoutubeも、「膨大なデータ量の中から各自好きなものに辿りついてください」というモデルですし。


サマソニのトリでレディオヘッドが「クリープ」を演ってみんながワーってなる、っというのはその音の良し悪しだけの話ではないですよね。レディオヘッドがあのビジネスモデルを構築できたのはそれを支えるポピュラリティーを既に獲得していたから、というのはちょっと皮肉だなあ、とは思う。


話は変わりますが、しかし、あのCDが売れていた10数年前に「これからはパーソナルな関係性がすべて」と『H』を創刊した渋谷さんはさすがでした。ネットの台頭で誌面を使った方法論はうまくいかず、雑誌の内容は全然違う方向へ変容しましたけど。
あとROさんは、見事にコンテンツ商売(雑誌)からプラットフォーム/コミュニケーション型(フェス)へ移行していますね。細かいところでいろいろ思うことはありますが、ただ、やっぱりさすがだなあと。


レーベル側にも独断専行でいろいろ試行錯誤できるカリスマがいればいいなとは思います。
しがらみの多い外資やテレビ系、基礎体力の弱いインディーは難しそうですね。となると、やっぱりエイベックスさんくらいしか思い浮かばない。と自分で書いてて驚くわけで。10年前、エイベックスに自分が何か期待するとは思わなかったなと。
そのエイベックスが昨年末にリリースした、スチャダラとスライ・マングースによるユニット名が「ハロー・ワークス」だったっていうのは笑えないジョークです。世間的にはSDPとスラマンがエイベックス所属っていうのもそもそも不思議な感じかもしれないですが。というか教授のレーベル、commmonsもエイベックス傘下なんですよね。つまり、ボアダムスも。実際、エイベックスがメジャーでは最も先端的なことを試みてるわけで。そうやってシーンを育成しているわけです。
あと、タワーの筆頭株主がドコモだって言うのもこうやって考えると味わい深いですね。ナップスターのような「パッケージ→データ」という小改革ではなく、広告モデルやプラットフォーム/コミュニケーション型への根本的な改革の提案があればいいな、と。まあ、ただ、現状認識では一致しても「で具体的に何をすればいいの?」というところでみんな止まっちゃうわけですが。


最後にみなさんコメントありがとうございます。
想像以上に多くの人(それこそ実際にインディー作品が届いている人数よりはるかにはるかに多くの)に読んでもらえたみたいで、興味深い意見も沢山ありました。
それを読みながらいろいろああでもないこうでもないと考えてる自分に気づき、「なんだ、結局、解決策を探してあがいてるんじゃん」と笑いました。

「初音ミクでドワンゴvsクリプトン」事件の素朴な疑問


http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/21/news048.html


初音ミクをめぐるドワンゴvsクリプトンで気になる、というか、不思議な点。


まず、楽曲の著作権は当然、その曲を作った人にある。
ので、ソフトメーカーでしかないクリプトンは著作者ではない。
まあ、クリプトンなり声優さんなりに歌唱印税なりプロモ印税なりの形で利益を分配すべきかもしれないけど、それは著作権とはまた別の話。
また原盤権は、その曲を録った人にある。
ので、ソフトメーカーでしかないクリプトンは原盤権者ではない。
これはLogicで制作したからといってアップルに原盤権が発生しないのと同様。
にも関わらず、使用者であるドワンゴが、権利者でもないクリプトンに原盤権著作権の管理についてお伺いを立て、それについて権利者でもないクリプトンが認めるだ認めないだ言ってるのは、素朴に不思議。
もしかして、楽曲クリエーターとクリプトンの間に、何か権利譲渡契約でもあるのかしらん。


あとクリプトンのJASRACに対する態度も不思議。
JASRACは確かにお役所的だし小うるさいし面倒だし縄張り主義的だし問題もいろいろあるが、ただ著作者からすれば、自分のかわりに自分の権利を管理してくれる味方。
権利を使う側のドワンゴが登録するって言うのに、頭ごなしなJASRAC否定はどうなんだ?というのも疑問。
もちろん「というかちゃんとホント管理できてるわけ?そのブランケット方式とかいい加減だしそのくせなんでそんな偉そうなの?あとちょっと間抜きすぎ金取りすぎじゃね?」っていうのはあるのだが、それは別問題。
自分の著作物なのにアレもダメコレもダメは変だっていう気持ちはわかるけど、でも一般論で言えば、著作者にとってJASRACに信託することは悪ではないです。


ちなみに『業界で管理と言えばJASRAC登録を指すのは当たり前』というのは、まあ、そうかな。
イーライセンスって手もあるけど、現状ではJASRACが独占的。
自主管理っていうのもあるけど、数百枚レベルのインディーならともかく、これほどの大ネタでそれは無理。
ていうか、その「無理」っていうのがJASRACのそもそもの成り立ちだったりもするのだが。

 を読んで思い起こしたのは池袋の通り魔事件だった


http://anond.hatelabo.jp/20071114015351 を読んで思い起こしたのは、池袋の通り魔事件だった。単純な連想で、それ以上の深い意味はない。そういえば、あの犯人が襲ったのはカップルや夫婦で、本当の意味での無差別ではなかったなあ、と思い出した。不条理に対する怒りが、また別の不条理を引き起こしたわけだ。


なんで自分だけこんなに不幸で周りの奴らは幸せなんだ?と怒りをぶちまけても、当然、その問いに答えも、ましてや救いも与えられない。理由もないし、意味もないのだ。たしかに不条理だが、そういうものだ。犯人の、元記事の筆者の、被害者の、なぜ?という問いは虚空に吸い込まれて消える。


実家の近くに古戦場があり、中学生くらいの頃、夜、塾帰りにふらっと寄ったりした。そこは小さな崖で、一夜のうちに何百人も兵が死んだという。暗い崖を覗いてみる。ありふれた、だが当人達からすれば必死に生きた生がここでぷつっと途切れた。子供がいたかもしれないし、いなかったかもしれない。恋人がいたかもしれないし、いなかったかもしれない。そんな人生がここで途絶え、無数に折り重なり、それぞれに細々あった喜びとか悲しみとかはすべて些細な枝葉として忘却され、歴史の一コマに収斂された。
受験生だった自分は、よくそこで小一時間ほど過ごした。すると、受験勉強も偏差値もくだらなく、どうでもいいことに思えた。


いま、ここで、これだけ活き活き罵り合ったり馴れ合ったりしている僕らの生も、いずれそうやって消え失せる。いま、必死になっている一切合財のすべてがいずれ無に帰る。
あなたもわたしもどんな人間もやがて死ぬ。というどうしようもない真理は、常に無意味性や不条理性という影を落とし続ける。そこから逃げれない限り、人生に意味はない。生きる意味を担保してくれる神様もいなければ、誰か/何かの意思があるわけではない。目的もない。理由もない。


そして、意味もなく理由もないそんなカオスを、ロゴス化し、名付け、価値を与え、善悪を定め、秩序立てたのがこの世界だ。
その中でのみ、人は役割を得て、目的を得て、喜びと悲しみを得て、人生の意味を得る。


昔、「なぜ人を殺してはいけないか?」とテレビで問うた若者がいた。居並んだ識者は誰も明確に答えられなかった。「殺すな」という法や倫理や道徳を支える社会契約論であれ聖書の一節であれ、その問いに答えることにはならない。なぜなら、社会契約論や聖書を説き理解させたその上でも、それでもなお「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いは可能だからだ。「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いは、ロゴスを超え、カオスへと伸びる。世界の内部から、その外へ、善悪も意味もないカオスへと放射された問いだ。その問いに答えは与えられない。なぜ?という問いは虚空に吸い込まれて消える。


カオスの影は、人を不安にする。
それがこの世界を支えている秩序/ロゴスの外を示唆するからだ。カオスの影は、これまで疑うことのなかったあらゆる価値を動揺させ、無化しようとする。外から差すその影は人々を恐怖させる。
例えば、精神疾患に対する世間一般の漠然たる根拠のない恐怖心は、そこに由来する。彼らの言動は混沌としている。彼らはこの世界の秩序/ロゴスの外、混沌に生きるカオスの住人だ。
だからこの世界で精神疾患の患者は「ただの人」でいることが出来ない。「異常」と分類され、「正常」になるために「治療」が施される。もちろん、正常/異常と分ける基準は、あくまでこの世界が生み出した便宜上のものだ。カオスの住人はそうやって世界の中で役割と意味と居場所を与えられ、そこに押し込まれる。カオスの住人を「異常者」としてロゴスのうちに分類/取り込むことにより、この世界は安定する。刑務所や精神病院は、カオスをロゴス化する社会システムだ。


死刑と言うのも、奇妙な刑罰だ。
命の尊さを説きながら、その上で命を奪うのだ。矛盾している。子供の頃からずっと不思議だった。
死刑は、「殺すな」という法や倫理や道徳を超え、殺す。死刑もロゴスを超え、カオスへ伸びる。
世界の終わりを現出させようとした麻原や、ネズミ人間の宮崎や、自分が神になった池袋の造田は、おそらくカオスの住人だと思う。彼らは混沌に生きているように思える。ロゴスの外にいて、善悪の判断がつかないのであれば、通常は刑罰とは違った形で社会から排除される。だが、彼らに下されるのは死刑だろう。実際、造田の死刑は確定している。その良し悪しにはあまり興味がないし、別にそれで構わないと思っている。いずれにしろ、彼らがこの社会から消えることには違いがないからだ。冷たいようだが、当事者でない限り、どちらでも同じことだ。
ただ「なぜ隔離ではなく死刑なのか」には興味がある。そこにこの世界を支えようと立ち上がる、茫洋とした、だが強固な意志を感じるからだ。彼らの罪は、この世界を支えている秩序/ロゴスの外を示唆したことだ。ロゴスを超えた罪には、ロゴスを超えた刑が与えられる。何気ない日常に、不条理というカオスの影を持ち込み、この世界の成り立ちを動揺させた者に対して、この世界は容赦がない。


http://anond.hatelabo.jp/20071114015351 は運営元から問題視され、結局、書いた本人によって削除された。現在読めるのはキャッシュからの転載だ。削除されたことの良し悪しにもあまり興味がない。ただ当然そうなるだろうな、とは思う。カオスの影を持ち込み、この世界を動揺させ得る言説に対しても、この世界は容赦がない。そしてそう想定できなかった元記事の筆者は、やはりカオスの住人なのだろうとも思う。治療したほうがいいというのは、まあ、そうだろう。この世界の論理でいえば。


ただ、それと同時に、元記事を読んだ時、あまりに痛快で笑いそうになったのも確かだ。
もっと書けまきちらせぶちまけろと思った。


夜、古戦場でじっと座っていた中学生だった頃の自分は、リンチやキューブリック中原昌也やノイズ・ミュージックが好きだった。意識はしていなかったが、子供なりにロゴスの外へ逃れカオスに触れようとするものが好きだったと思う。
あの頃から比べたら、随分と健全になった。大人になるとはそういうことだ。いまやロゴスに取り込まれた一人前の社会人だ。
ただ、それでも、やはり時々この世界の外を覗き込みたいという誘惑が頭をもたげることがある。退屈で固定化した世界を破壊し、あらゆるものが突如として流れ出し、溶け出す。それは言い様のない快感なのだ。
変態的なセックスでもグロい映像でも変な薬でも爆音の音楽でも何でもいい。
世界が揺れ、ずれていく。
ロゴスを超え、カオスへ伸びていく。
世界の外側から差す影の痕跡。
そんなゾクゾクする何かが欲しくて仕方がなくなる。
だからもっと書けばいい。
もっとまきちらせ。もっとぶちまけろ。

他人の信仰には口を出さない主義なんだけど


ネタ的には、前の続きみたいな。


http://blog.goo.ne.jp/funamushi2/e/9a10e0e7305d02e089c22700d0c03bba


以下、引用。

あらゆる問題の外側にある恋愛や結婚などの問題は、すべての内在的な苦しみを解放できる力を持つ「唯一共通の拠りどころ」なんですよ。

すべての希望が子供に詰まっています。そして子供の誕生は人生の一つの終着点でもあります。


恋愛、結婚、出産であらゆる苦しみから救済される。というか、それでしか救済されない。そういう「信仰」というわけ。
他人の信仰には口を出さない主義なんだけど(信じるものがある人は大体それだけで幸せそうだもの)、ただその苦しみがその信仰自体に由来しているようにも見えるのは、ちょっと切ない。
たとえばそれは禁欲を課すからこそ「欲望」が生まれ、遡及的に禁欲が苦行になるのと同じ構造。


逆に価値を転倒させることによって得られる自由もある。それで永遠に外れるはずのなかった足かせが(外れるのではなく)消えてなくなることもある。
逃避、ではない。「そもそも自分にとって何が最も価値があるか」を決める力を、自分の手の中に取り戻すだけ。
何のためにって、もちろん自分が楽しく生きるために。
それこそが「弱者」にとって一番手っ取り早く合理的な武器のはずだ。


でも「その世界観の天と地と昼と夜をあべこべにしよう」といってるようなもので、決して簡単じゃないってことも重々わかってはいるんだけどね。
試しにとりあえず形から入ってみるとかどうだろ。ビーガンになってロハスな生活を送ってみるとか、動物愛護団体にはいって捕鯨船に石投げてみるとか、嫌韓になっていろいろ綴ってみるとか、手頃なところから始めてみるのがいいと思う。お試しで改宗。いや、ちゃかしてるんじゃなくて、マジで。


…って、まあ、余計なお世話だよな。うん。

表現するということは、元来、気持ち悪いものなのだよ。


表現するということは、元来、気持ち悪いものなのだよ。
音楽であれ、文学であれ、ブログであれ、何であれ。
なにしろ傲慢で自己陶酔的で自意識過剰で醜いオナニーだからね。
駅前のストリート・ミュージシャンとか女子高生が書いたケータイ小説とか路上のカジュアルな相田みつをモドキとかロキオンの読者投稿とかライフハック(笑)なブログとかmixiのいかにもカマッテな日記とか友達の誕生日プレゼントに自作のポエムをプレゼントしちゃう女とかこのブログも。全部気持ち悪い。
オナニーを人にわざわざ披露し「カッコイイ」とか「アタマイイ」とか「カンドウシタ」とか「ナケタ」とか「オモシロイ」とかお褒めにあずかろうって魂胆があけっぴろげにご開帳されてるのだから、まあ、当然だよね。
ちなみに音楽もオナニーであるうちは売れない。それだけで芸として成り立つような圧倒的かつ強烈なオナニーであれば別だが。大抵は、自分の作品がオナニーであることに気付き、恥じ入り、猛省し、聴衆や消費者の娯楽となるべく自分を殺し、ただの装置になり、それを通して大衆の欲望を形にすることが出来てはじめて人々に喜んでもらえるようになる。自己愛の表出でしかなかったオナニーが、立派にお金を取れる芸になるのだ。そこに気付くかどうかが売れるかどうかの境目だよ、といつも思うのだが、またそれは別の話。


http://blog.goo.ne.jp/funamushi2/e/58d690dcf02e90a53f5a15310a81f6c2


ここで攻撃されてる元の話も、自己愛に満ちていた。パブリックな場所でわざわざ書いているのだから当然そうだろう。
でも、それが責められるべきことかどうかは違う問題だ。
所詮は個人ブログだ。書いてる本人が楽しくて何が悪い。オナニーのネタは自分で決める。いくら会社ではふんぞり返ってるからって実際はドMなんだよ。今日は痴女AVで抜く。断固抜く。
ただ痴女AVで抜いてる姿を開陳するのであれば、いろいろあるのも想像がつくだろう。同好のM男諸氏やS女さんが覗いてるうちは盛り上がるかもしれないが、一般F1層にでも見られたら気色悪い変態扱い。おっさんのオナニーなんて、場合によっては一生拭えないトラウマになるぞ。と。


つまりそういうことだ。
どんなものであれ(つまりこの文章も)、表現することは誰かを傷つけ不快にすることがある。
特に勝手に浮かれたヤツの甲高い笑い声やくだらないノロケやしつこい自己アピールやチンケな自慢話やスノッブなウンチクや暗い不幸話やしみったれた苦労話や罵詈雑言やひがみや呪いの言葉は人を鬱にしがちだ。
たとえそうでなくても、どんな表現も不快だ気持ち悪いみっともない醜いと非難され得る。
そう自戒することで、オナニーをより芸に近づけるのか、カーテンを閉めるのか、何か対策を打つことは出来る。もちろん、そうしたければだけど。
そして、それはブログだけの話ではなく、昼飯の同僚との会話も電車内での振る舞いも隣人との付き合いも全部同じなんだけどね。

初音ミクが音楽業界に与える影響をリアルにシミュレーションしてみる。


http://d.hatena.ne.jp/essa/20071021/p1


この記事がとても興味深かった。が、業界の中(はしっこだけど)の人間として、そこまで壮大な話に広がるのか、なかなか実感が沸かない。
ので、初音ミクが音楽業界に与える影響(?)をなるべくリアルにシミュレーションしてみた。


まず、前提として、おそらくメジャーレコ社の制作陣の大半は、初音ミクを知らない。
もちろんあくまで推測だが、彼らは概してこの手の情報には疎い。
みんな一般のサラリーマンだから。
winnyですら知らない、知ってても漠然とした知識しかない、そんな一般人が大多数。


さて、そんなメジャーレコ社の制作陣が初音ミクを、ある日知る。
『おまかせ』観たやつがいて、「面白いものがある」とか「やたら流行ってるものがある」とかそんな情報で。
で、若いバイト君にニコニコを見せてもらって確認する。
「面白いじゃん」ととりあえず乗る。「そんなに人気あるの?」「売れると思う?」と興味を示す。テンションが上がる。
レコ社員の思考パターンの基本として、「これはリリースに繋がるか? そしてリリースしたら売れるか?」とまず考える。正しくサラリーマン。


ここで市場調査を指示。すると、ちょっとテンションの下がる結果が出てくる。
まずは予想の範囲内だが、F1F2層にはそっぽを向かれることがわかる。さらに地方では売れなさそうなこともわかる。広がりはさほどなさそうだと読む。
店頭展開では、タワー、HMVなどはまず見込めない。TSUTAYAも微妙。石丸、ヤマギワ、あとはネットが主戦場と読む。自社営業陣の得意ジャンルと比べてみる。営業は嫌がりそうだなあと予想。
しかし、ネガティヴ要素はいくつかあるが、ある程度固いセールスは見込めそうだ。タマとしてはアリ。それなりに売れるのであれば、編成会議も通る。DVDかCDか、いずれにしろ出せそうだ、と踏む。


あとは初音ミクのライセンスの使用料と曲だな、と試算。
使用料はとりあえず実際に打診して感触を確かめるしかない。
問題は曲。
既存の有名楽曲を使うことは、まず無理だ。いかにもアキバなキャラにアニメ声で歌わせるなんて、アーティストにお伺いを立てることすらはばかられる。一笑に付されるか、罵倒されるか、いずれにしろ断れるのは明らか(…これがリアルなところかと)。
じゃあ、曲は自前だな。と契約作家陣を思い浮かべる。あいつならサクッとアキバっぽいの書いてくれそうだ、とひとり思い当たる。電話する。スケジュール確認。いける。
というわけで、企画書を書く。


というのが数社で進行。
しかし外資系レコ社(4大メジャー系)では上が渋り、編成会議で一度とまる。重役たちは乗り気じゃない。彼らは警戒し、眉をひそめる。初音ミクが音楽業界の脅威だから。ではなく、そのオタクなイメージを気にして。うちのブランドに響くんじゃないの?と。ここで外資系レコ社は脱落。
…この辺の感覚もやっぱりリアルなところかと。結局マス相手のイメージ商売だし。


さて。残るはあのA社とアニメDVDの実績もある国内テレビ系レコ社数社。
同時に妄想ボイスCDをあてたインディー流通あたりも名乗りをあげる。
ライセンス交渉さえうまくいけば、その中の一社から無事リリース。
テレビではキワモノ的に、AMラジオではわりと真っ当に、店頭は秋葉原、あとはネットを中心にプロモーションをまわして、それなりの成果。
セールスもそれなり。予想通り大きな広がりはなく、期待した爆発もないが、まあまあ堅調な売れ行き。シリーズ化しようという声も上がる。


…と、そんな感じかな。
実際に売れるかどうかは別にして、音楽業界はビジネスとして当然のように初音を取り込もうとするだろうし、そうすべきだと思う。
事実、この音楽不況下に、これほど話題性とセールスを兼ね備えたタマはそうない。きっと良い商品になる。
でも、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。


音楽の価値基準はひとつではない(だからビジネスとしては極めて脆弱。計算が聞かない。業績は乱高下。商売としては実にリスキー)。
一方で、初音ミクに限らず、ヴォーカロイドはプログラムである以上、ある特定の価値感に基づいて書かれるしかない。その価値観は一瞬受け入れられるが翌月には忘れられる。昨日プログレ、今日パンク、みたいな。
そうそう、パンクもヒップホップもテクノの時代時代の「音楽家」の外にいた素人たちによる挑戦だった。そんな音楽の歴史を変えたはずのアレもコレも、流行ったり廃れたり思い出されたり忘れられたりしながら、音楽の一ジャンルとして居場所を見つけてきた。
(このあたりは、ちょっと前にも書いたことだけど。http://d.hatena.ne.jp/rmxtori/20071021/p1


というわけで、現実的にはこんなふうに初音ミクは音楽業界の中で居場所を見つけるのではないでしょうか。